2022年5月16日(月)
『それは、……神のご性質にあずかる者となるためです。』ペテロの手紙第二1章4節
私たちは数々の約束を通して、神のご性質にあずかる者とされた。
次に、私たちは習慣を形成して、神のご性質を自分の人間性の中に取り入れていかなければならない。
第一に形成すべき習慣とは、神の備えを認識する習慣である。
「ああ、それを買う余裕はない」と私たちは言う。
そこには最もたちの悪い嘘が隠されている。
日常生活において金銭のことをとやかく言うのは低俗であり、霊的にもそれは同様であるとはいえ、私たちはまるで天の御父が私たちに申し訳程度の小銭を与えて、私たちを見捨てたような言い方をする。
一日を終えて、「ああ、きょうのところはなんとか切り抜けたが、大変な一日だった」と言うことが、真に慎み深いしるしであるかのように、私たちは考えている。
ところが、主イエスにあって、全能の神のすべては私たちのものなのだ。
もし私たちが神に従えば、最後の砂粒一つ、最遠の星を用いてまでも、私たちを祝福してくださるのである。
私たちの状況が外面的に見れば厳しいとしても、それが問題なのだろうか。
厳しくてはいけないのだろうか。
私たちが自己憐憫に陥り、惨めな思いにふけっていると、神の豊かな富は私たちの生活から消え去り、他の人々が神からの供給にあずかれないことになる。
自己憐憫ほどたちの悪い罪はない。
自己憐憫は神を王座から引きずり下ろし、自分の利益を王座につけるからである。
自己憐憫により、口からは不満が出るばかりで、私たちの人生は、いわば霊的な海綿状態となる。
すなわち、吸収するばかりで与えることなく、決して満足することがない。
そんな私たちの生活には麗しさも気前の良さもない。
神は、私たちから偽りの富をことごとく取り去り、私たちの泉のすべてが神にあることを私たちが学ぶまで、私たちに満足されることはない。
もし神の威厳と恵み、そして御力が私たちに現れていなければ、神はその責任を私たちに問われる。
「神はあなたがたに、あらゆる恵みをあふれるばかりに与えることがおできになります。
あなたがたが、いつもすべてのことに満ち足り……るためです」。
その次に、神の恵みを自ら惜しみなく人々に注ぐことを学ばなければならない。
神のご性質という証印があなたに押されているなら、神の祝福はあなたを通して絶えず流れ出る。
God Bless You!!
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