2022年5月15日(日)

2022年5月15日(日)


『神の召しにより与えられる望みがどのようなものか、……知ることができますように。』エペソ人への手紙1章18節、19節


あなたが救われたのは、死すべきあなたの身を通して神の御子が現されるためであることを忘れてはいけない。

あなたの能力のすべてを注いで、神の子として選ばれた目的を達成せよ。
あらゆる機会をとらえ、難局を乗り越えることだ。

救いを達成するためにあなたがしたことは何もない。
しかし、救いを受けたことを現すためには、なすべきことがある。
神がすでにあなたの内側でなしてくださった救いを、外に行動としてあらわしていかなければならないのである。

あなたが話すこと、考えること、そしてあなたの感情は、救いを外にあらわすものとなっているだろうか。
もし、あなたが相変わらず惨めで、不平をこぼし、我を通しているなら、神があなたを救い、聖めてくださった、というのは真っ赤な嘘である。

最高の設計者である神は、あなたの人生に逆境が訪れるのをあえて許し、あなたがそれをしっかり乗り越えていくかどうかを見ておられる。

「私の神によって城壁を跳び越えます」。

神は、ご自分の「息子」「娘」たちへの要求を決して免除されない。
ペテロは言う。
「愛する者たち。
あなたがたを試みるためにあなたがたの間で燃えさかる試練を、何か思いがけないことが起こったかのように、不審に思ってはいけません」と。

底力を出せ。
なすべきことから逃げずにそれを行え。

それによって神がイエスのいのちを現す機会としてくださるかぎり、どれほどつらいかは問題ではない。

願わくは、神が、これ以上、私たちの弱音を聞くことなく、私たちにもたらされるどんな状況にもたじろがない霊的な勇敢さと力をご覧になれるように。

私たちの死すべきからだを通して神の御子が現されるように、私たちは自分自身を奮い立たせなければならない。
神は私たちを博物館に陳列するような御方では決してない。

人生で唯一の正しい目標とは、私たちを通して神の御子が現されることをおいてほかにない。
それが実現するとき、私たちが神に指図することはなくなっていく。

私たちの主は、ただの一度も御父を指図されたことはなかった。
私たちが存在するのは、神のお望みが私たちを通してなるように、その御旨に従うためである。

ひとたびこのことに思いが至ると、神は私たちを、裂かれたパン、注ぎ出されたぶどう酒として、人々を養い、育む者に変えてくださるのである。

God Bless You!!


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