2022年5月13日(金)
『私はいつも、神の前にも人の前にも責められることのない良心を保つように、最善を尽くしています。』使徒の働き24章16節
私たちに対する神のご命令とは、事実上、私たちに内在する御子のいのちに対するものである。
したがって、私たちの人間としての性質にとっては、御子が内側に形造られたとはいえ、実行は困難である。
ところがひとたび私たちが従うと、驚くほどそれが容易になる。
良心とは、知りうる最高の基準に自分を合わせようとする、私たちの中にある能力であり、その基準が要求するものを、絶えず思い起こさせてくれるものである。
それは神を、また私たちが最高の基準とみなすものを見つける、たましいの目の役割をしている。
人によって良心が異なる理由はそこにある。
もし神の基準を目の前に置くことを習慣としていれば、常に良心は私を神の完全な律法に導き、自分が何をすべきかを示してくれる。
問題は、私がそれに従うか否かである。
私は、自分の良心を鋭敏に保つ努力をしなければならない。
だれに対してもつまずきを起こすことのないためである。
私は神の御子と完全な調和の中に生き、自分の思いと霊が、あらゆる状況を通して新たにされ、「何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを」ただちに判別するのでなければならない。
神の導きは常に、最後の細部にまで至る。
自分がなすべきことを知ろうと、御霊のほんのわずかなささやきも聞き逃さないほどに、私の耳は鋭敏になっているだろうか。
「神の聖霊を悲しませてはいけません」
御霊は雷鳴のようには語られない。
御霊の声は非常に優しいので、無視するのは簡単である。
私たちの良心を常に神に対して鋭敏にしてくれるのは、神に対して常に心を開放している習慣以外には何もないのである。
神と議論を始めたら、ただちにやめることだ。
「なぜこれをしてはいけないのですか」と尋ねてはいけない。
あなたのやり方は逆様である。
ひとたび良心が声を発すれば、議論することなどありえない。
たった一つのことで、神との交わりが曖昧なものになりかねない危険をあなたは冒している。
反論が何であれ、それは取り下げよ。
ただ自分の心の目がはっきり見えるように留意せよ。
God Bless You!!
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