2022年5月11日(水)

2022年5月11日(水)


『兄弟愛には愛を加えなさい。』ペテロの手紙第二1章7節


愛とは、ほとんどの私たちにとって曖昧なものである。
愛について話しているのに、その意味が分かっていない。

愛とは、一人を、他の人よりも圧倒的に優先することである。
そしてイエスは、ご自身を最高に優先せよ、と迫っておられる。

初めのうちは「聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれている」ため、イエスを優先するのは容易である。
しかし、その後で、ペテロの手紙に記されているように実践していかなければならない。

自分の生活にそれらが反映されているかどうかを知るためである。
神は真っ先に、私の生活にひそむ不誠実さ、高ぶり、虚栄心を無理にでも取り去ろうとされる。

神が私を愛されたのは、私が愛すべき人間であったからではなく、愛することが神のご性質であったからであることを、聖霊は明らかにされるのである。

そして、神は「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と、その同じ愛を他の人々に示すよう私に命じておられる。

神は仰せになる。
「あなたが尊敬できないような人を何人でも連れて来よう。
あなたはわたしの愛をその人が分かるように示さなければならない。
わたしがあなたにしたのと同じように」と。

この愛は、相手を驚かせ、警戒させないように「つま先で歩いても」到達できるものではない。
中には、そのようにやってみた人もいる。
しかし、すぐに疲れてしまうのが落ちである。

「主は、……あなたがたに対して忍耐しておられるのです。
だれも滅びることがないようにと望んでおられるからです」

私たちは自分の内側を省み、神がどれほどのご慈愛をもって私に臨んでくださったかを思い出すべきである。
私の罪や卑しさ、自己中心さや過ちのすべてにもかかわらず、神が私を極みまで愛してくださったことを知れば、私もそれと同様に世に出て行って他の人々を愛さないわけにはいかなくなる。

私に対する神の愛は尽きることがない。
ゆえに、神の愛という動かない土台に拠り頼んで他の人を愛すべきである。

風変わりな人と一緒に暮らすことになれば、苛立つかもしれない。
しかし、考えてもみよ。
自分自身が神にとってどれほど扱いにくい存在であったかを。

主の優しさと麗しさが絶えることなく注ぎ出されるように、主イエスと一体になる用意が私にあるだろうか。
自然的な愛にしても、神の聖なる愛にしても、育まれないかぎり、私のうちにとどまることはない。

愛は自然に生まれるものである。
しかし、それは訓練によって維持されていなければならないものでもある。

God Bless You!!


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