2022年4月8日(金)
『キリストは必ずそのような苦しみを受け、それから、その栄光に入るはずだったのではありませんか。』ルカの福音書24章26節
私たちの主の十字架は、主のいのちへの入り口である。
主が復活されたということは、そのいのちを私にもたらす力が、主にあるということである。
新生したときに、私は主ご自身のいのちを、復活の主から受けたのである。
キリストの復活に込められた天命とは、「多くの子たちを栄光に導く」ことであった。
その天命を成し遂げた主には、私たちを神の息子、娘にする権限がある。
御子なる神と同じ御父との関係に入ることはありえないにしても、私たちは御子によって、子という立場に入れていただいたのである。
死者の中からよみがえられた主は、受肉されるまで、ご自身も経験されたことのない、全く新しいいのちによみがえられた。
それまで存在したことのないいのちである。
そして、私たちにとって主の復活とは、私たちが以前のいのちにではなく、主の復活のいのちによみがえらせていただいたことを意味している。
いつの日か、私たちも主と同じ栄光のからだを持つに至るであろう。
しかし、今、この地上においても、私たちは主の復活の力を知り、「新しいいのちに歩む」ことができるのである。
パウロは「キリストとその復活の力を知る」ことを切に求めた。
「あなたは子に、すべての人を支配する権威を下さいました。
それは、あなたが下さったすべての人に、子が永遠のいのちを与えるためです」とイエスは祈られた。
「聖霊」という呼び名は、今、この地上において、人に永遠のいのちを経験させてくださる御方の別名である。
聖霊は、キリストの十字架の贖いを、絶えず私たちが経験することに適用してくださる神なる御方である。
私たちが主に従うなら、聖霊がイエスのご性質に私たちを似る者としてくださるという、輝かしい真理のゆえに、神に感謝しようではないか。
God Bless You!!
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