2022年4月4日(月)

2022年4月4日(月)


『見なさい。その時が来ます。……ぁなたがたはそれぞれ散らされて自分のところに帰り、わたしを一人残します。』ヨハネの福音書16章32節


イエスは弟子たちを叱責しておられるのではない。

弟子たちの信仰は本物であった。
しかし、動揺してしまったため、実際の場面で役立たなかったのである。

弟子たちは自分にとって有利に思われる方向へと散り散りになっていった。
イエス・キリストにはなかった得失という考え方に影響されていたからである。

聖化によって神との全き関係に入っても、私たちの信仰は、実際生活の中で鍛錬されなければならない。
私たちが散らされて行き着くところは、奉仕ではなく、内なる荒廃である。
神の祝福にあずかれない内なる死とはどんなものかを、そこで思い知らされるのである。

その覚悟が私たちにあるだろうか。
もちろん、私たちは自らそこを選びはしない。
しかし、神は私たちを囲む状況を操作して、そこに至るようにされる。

そのような経験を通らないかぎり、私たちの信仰を支えるものは、自分の気持ちや祝福以外にはない。
しかし、一旦そこに行けば、どのような環境に置かれようが、内なる荒廃がどうであろうと、最後には、これで良かったと、神を賛美することができる。

これこそ、信仰が実際の生活で鍛錬されるという意味である。

「あなたがたは……わたしを一人残します。」

主の摂理を悟ることなく、散り散りになってイエスを置き去りにしてはいないだろうか。
私たちが置かれている状況の中に神が働いておられることが見えないのだろうか。
霊的な暗闇が訪れるのは、神の主権による。

神が望まれるままに取り扱われる心の準備はできているか。
神の祝福と感じられるものがなくても大丈夫か。
イエス·キリストが主となるまでは、それぞれ成し遂げたい自分の目標があるものだ。

私たちの信仰は本物かもしれない。
しかし、まだ永続するものになってはいない。

神は急いではおられない。
待っていれば、私たちが関心を持っていたのは神ご自身ではなく、神の祝福にすぎなかったことを、神は教えてくださる。
何が神の祝福か分かる、というのはその基本となるべき感覚である。

「しかし、勇気を出しなさい。
わたしはすでに世に勝ちました」。

霊的に不屈であることが、私たちに必要なのである。

God Bless You!!


a:30 t:1 y:0