2022年4月30日(土)
『愛は寛容であり、愛は親切です。』コリント人への手紙第一13章4節
愛とは前もって考えたものではなく、自然に起こるもの、つまり、思ってもみない方法でほとばしり出るものである。
パウロによる愛の描写には、数学的な確実性を示唆するものは何一つない。
前もって自分の思いや行動を予定することは私たちにできない。
たとえば、「人がした悪を決して考えないようにしよう」とか「私はすべてを信じよう」ということはできないのである。
自然に流れ出る、というのが愛の特性だからである。
私たちはイエスが述べられたことを意識して、それを自分の行動基準とするようなことはしない。
しかし、イエスの御霊が私たちに自由に働くと、気がつかないうちにイエスの基準に従って行動している。
そして振り返ってみると、いかに自分の感情にはお構いなしでいたかを知って、仰天するのである。
それこそは、本物の、自然に湧き出る愛があった何よりの証拠である。
私たちのうちに働く神のいのちに関わることは、ことごとく、出来事が終わった後に、その本質をようやく識別することができるようになる。
愛が湧き出る泉は神の中にあるのであって、私たちの中にはない。
神の愛は、初めから私たちの心の中にある、と考えるのはばかげている。
神の愛が私たちの心の中にあるのは、「聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているから」である。
自分がどれだけ神を愛しているか、神に証明してみたい、と思うなら、それこそは、私たちが神を愛していない何よりのしるしである。
私たちが神を愛している証拠は、私たちの愛が自然に湧き出ることにあるからである。
その源は私たちの中にある神のご性質である。
過去を振り返ると、なぜ私たちがある特定のことを行ったのかその理由を突きとめられないことがある。
それは、私たちのうちにある神の愛の性質が自然に働いたためである。
神のいのちはこのように自然な形でその姿を現す。
なぜなら、神の愛の源泉は聖霊にあるからである。
God Bless You!!
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