2022年4月3日(日)

2022年4月3日(日)


『もし、平和に向かう道を、この日おまえも知っていたら——。しかし今、それはおまえの目から隠されている。』ルカの福音書19章42節


イエスが勝利のうちに入城されると、エルサレムは人々の歓呼でその土台まで揺らいだ。

ところが、そこにはすでに見知らぬ神がいた。
パリサイ的な高慢という神である。
それは、宗教的で正しいように見えたが、「内側は……あらゆる汚れでいっぱいの白く塗った墓」であった。

「この日」私の目を見えなくしているものは何か。
私は見知らぬ神を拝んではいないだろうか。
嫌悪感を催す怪物ではなく、私を支配する俗なる性質を……。

神は一度ならず、この見知らぬ神と私を対面させられたことがある。
そのときに縁を切るべきであったのにそうしなかった。
私はかろうじて危機を通り抜けたものの、気がついてみれば、依然としてこの見知らぬ神の支配の下にいる。

そのために私を平和へと導くものに対して私は無自覚である。
本来、神の御霊が自由に働かれるところに私たちが居座り、神の前に答を増し加えているとすれば恐ろしいことである。

「もし、おまえも知っていたら……。」

神は問題の核心を突かれるが、その背後にはイエスの涙が隠されている。
このことばには、私たち自身の過失による責任が暗示されている。
神は私たちが見ようとしなかったものに対する私たちの責任を問われる。

「今、それはおまえの目から隠されている」のは、自分の性質を頑として手放さなかったからである。
「こうなり得たものを」ということばには言い知れぬ悲しさがある。

神は一旦閉じられた扉を二度と開けようとはなさらない。
他の扉を開けてくださることがあっても、私たちが自ら閉じてしまった扉、閉じなくてもよかった扉、汚す必要のなかった心の記憶を神は呼び覚まされる。

しかし、神が過去をよみがえらされたとしても恐れる必要はどこにもない。
記憶がよみがえるのを止めなくてもよい。
それは、あなたに叱責と悲しみを運ぶ使者なのだから。

神は「こうなり得たはずのこと」を、これからの成長のための素晴らしい教訓としてくださるのである。

God Bless You!!


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