2022年4月29日(金)

2022年4月29日(金)


『私たちは……やがてどのようになるのか、まだ明らかにされていません。』ヨハネの手紙第一3章2節


生来の私たちは数学的に予測を立て、得失を計算する傾向があるために、不確実なことは良くないこととみなす。
私たちは既定の目標に到達しなければならない、と考えるが、しかしそれは霊的ないのちの本質とは言えない。

霊的ないのちの本質は、不確かな状況の中にあっても確信を失わないことである。
その結果、どこにも根を下ろして定着しようとしない。

常識は、「もし私がその状況の中にいたとしたら……」と問う。
しかし、今まで経験したことのない環境に自分を置くとはどういうことか、私たちに分かるわけがないのだ。

確実さを求めるのは常識的な生き方の特徴である。
恵みの中に不確かさが混在しているのは霊的な生き方の特徴である。

神に信頼するとは、自分自身は不確かな者であって、明日何が起こるかも分からない、という意味でもある。
これは普通、嘆息するべき悲しいこととして受けとめられるが、本当は、固唾をのんで期待することを表すべきなのである。

私たちは次にどうしたらよいか分からないが、神を信頼する。
私たちが神に自分を明け渡し、一番近くに置かれた義務を果たしていくと、神は私たちの人生を驚きで満たしてくださる。

ある特定の信条を単に推進し、擁護するだけなら、私たちの中で何かが死ぬ。
それは神を信じることではなく、神についての自分の信条を信じているだけのことである。

「子どもたちのようにならなければ……」とイエスは言われた。

霊的ないのちは子どものいのちと似ている。
私たちは神ご自身が分からないのではなく、神が次に何をなさるかが分からないだけである。

もし私たちの確信が、単に自分の信条に対するものにすぎないなら、私たちは尊大になり、必要以上に批判的になるだけでなく、自分の信条が完璧だと思うあまり、ほかの考えをはねのけるようになる。

しかし、神と正しくつながっているなら、人生はのびのびとして喜ばしい「不確かさ」と期待に満ちたものとなる。

イエスは「わたしに関わる特定の事柄を信じよ」と言われたのではない。
「わたしを信じよ」と言われたのである。

一切をイエスにゆだねてみよ。
主がどのようにしてあなたのところに来てくださるかは、見事なまでに不確かである。
しかし、主が来てくださることは確かである。

主に対して忠実なままであれ。

God Bless You!!


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