2022年4月21日(木)

2022年4月21日(木)


『ピリポ、こんなに長い間、あなたがたと一緒にいるのに、わたしを知らないのですか。』ヨハネの福音書14章9節


主は、あまりにもへそ曲がりの私たちを見て、常に驚いておられるに違いない。

私たちが愚かであるのは、自分独自の考えのせいである。
しかし、もし素直になりさえすれば、決して愚かになることはないどころか、すぐれた判断力が与えられる。

ピリポは壮大な神の奥義が啓示されるのを期待していた。
ところが、自分がすでに知っているイエスという御方にはそれを期待していなかった。

神の奥義はやがて起こることの中にではなく、今目の前にあるというのに、私たちは将来の、時代を画するような大きな出来事にそれを求めてしまうのである。

イエスに従うことに、何のためらいも私たちにはない。
しかし、「主よ、私たちに御父を見せてください」と願う私たちが主のお心を痛める、というのは大いにありうることである。

主のお応えはただちに返ってくる。
「御父はいつでもここに(=わたしの中に)おられる。
ほかのどこにもおられない」と。

私たちは神がご自身を神の子どもたちに(to)現してくださることを求める。
ところが、神はご自身を神の子どもたちの中に(in)現されるだけである。
人々がその現れに気がついても、神の子ども自身は気づかないでいる。

私たちは、自分に対する神のお働きを一つ残らず知りたいと願う。
しかし、すべてを知れば、平常心ではいられなくなる。

もし私たちが神に特別な経験を求め、それがかえって私たちが神を知る妨げになるなら、私たちは主のお心を痛めているのだ。

そのように問いかけること自身がイエスに苦痛を与えている。
神の子どもなら決してしないたぐいの質問だからである。

「あなたがたは心を騒がせてはなりません」と主は言われた。
私が自分の心を騒がせたままでいれば、イエスに苦痛を与えているのではないだろうか。

もしイエスのご人格を信頼しているなら、私のふるまいはその信頼にふさわしいものになっているだろうか。
私は自分を動揺させるものを受け入れていないだろうか。
病的な疑念が心に入るのを許していないだろうか。

あらゆることを主から来たものとして受けとめる絶対的な信頼関係に、私は行き着かなければならない。

神は、やがて私たちを導いてくださるのではない。
いつでも今、導いてくださるのである。

主は今、ここにおられることを理解せよ。
そうすれば、ただちに自由を経験する。

God Bless You!!


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