2022年4月12日(火)

2022年4月12日(火)


『死はもはやキリストを支配しないのです。……キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。同じように、あなたがたもキリスト・イエスにあって、自分は罪に対して死んだ者であり、神に対して生きている者だと、認めなさい。』ローマ人への手紙6章9節から11節


《キリストとともにある永遠のいのち》

永遠のいのちとは、イエス・キリストが人間という被造物のレベルにおいて示されたいのちのことである。
そのいのちは私たちが神によって生まれたときに、死すべき肉体にはっきり現れたもので、複製されたいのちではなく、イエスと同じいのちである。

永遠のいのちは神から来る賜物ではなく、本来神に属する賜物である。
イエスにはっきりと認められる生命力と力強さは、ひとたび私たちが罪に対して冷静な決断を下すなら、神の圧倒的な恵みによって、私たちにも現れる。

「聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます」

この力は、聖霊の賜物としての力ではない。
力とは聖霊ご自身のことであり、聖霊が分与してくださるもののことではない。

ひとたび、私たちがイエスとその死にあずかろう、と決断するなら、イエスのうちにあったいのちが、十字架によって私たちのものとなる。

神との関係を正すのが難しいとすれば、その原因は、私たちが罪に対して明確な決断を下さないからである。
しかし、ひとたび決断を下すなら、神の満ち満ちたいのちが入ってくる。
イエスが来られたのは、いのちの供給が私たちに尽きることのないためであった。

「そのようにして、神の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが満たされますように」

永遠のいのちは、時間とは全く関係がない。
永遠のいのちとは、地上におられたイエスに宿っていたいのちのことであり、そのいのちの根源は主イエス・キリストをおいてほかにないのである。

どれほど弱い聖徒であろうと、ひとたび、自分が後生大事に抱えているものを手放すなら、神としての御子の力を経験することができる。
ところが、自分の力に少しでも頼ろうとすると、私たちのうちにあるイエスのいのちは消えていく。

私たちは絶えず、手放し続けなければならない。
すると、ゆっくりと、しかし確実に、神の満ち満ちた素晴らしいいのちが、私たちの隅々にまで入り込み、人々は私たちが今までイエスとともにいた、と気づくようになるのである。

God Bless You!!


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