2022年3月4日(金)

2022年3月4日(金)


『これらのどれによっても私の心は動かない。自分のいのちも惜しいとは思わない。』使徒の働き20章24節


幻を持たずに神に仕え、召命もないまま、神のために労することは、そうでない場合より容易である。
そうすれば神が何を求めておられるか、気にせずにすむからである。

常識を導き手とし、クリスチャン的な心情でうわべを飾っておけばよい。
神からの召しに全く気づかないでいれば、あなたのほうが経済的には豊かになり、成功を収め、余暇さえ楽しめることだろう。

しかし、ひとたびイエス・キリストから任命を受けると、神が自分に求めておられることを思い出しては心が苛まれ、もはや、常識的な判断で神のために働くことはできなくなる。

私が本当に「惜しいと思う」ものとは何だろうか。
今までイエス・キリストに捕らえられたことがないなら、奉仕を、また神に献げた時間を、そして自分のいのちを惜しいと思うことであろう。

パウロも自分のいのちを惜しむと言ったが、それは受けた任務を全うするためであり、その他のことは、いかなることであっても力を注ぐのを拒んだ。

使徒の働き20章24節は、少しは自分のことを考えるべきではないか、と言われたパウロの、高貴な苛立ちを述べている。
パウロは、自分が受けた任務を全うすること以外には、どんな配慮にも完全な無関心を貫いたのである。

私たちの実際の働きは、実のところ私たちが自分を神に全く明け渡すことの妨げになっているかもしれない。
そのような働きは次のような自分への説得に基づいているからである。

「あなたがここにいなければ、どうなるか忘れてはいけない。
特にあの仕事はあなた以外にできる人がいないではないか」と。

このような態度でいると、どこに行くべきか、イエス・キリストの判断を仰ぐのではなく、自分が最も役に立つのはどこか、という自分の判断に従うことになる。

自分が役に立つかどうかは全く考慮しなくてよい。
むしろ、自分がもはや自分のものではなく、主のものであることをいつも考慮していなければならないのである。

God Bless You!!


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