2022年3月25日(金)
『……花婿の友人……。』ヨハネの福音書3章29節
性格の善良さや清さというものに、人々の注意が引き寄せられることがあってはならない。
むしろ、それらは、人々をイエス・キリストに引き寄せる磁石となるべきである。
私の「聖さ」が、人々をキリストに引き寄せていないなら、その聖さは正しい聖さではないばかりか、相手に過剰な期待を持たせ、道を誤らせる原因になる。
聖徒の鑑と言われるような人であっても、イエス・キリストを紹介せず、ただキリストが自分にしてくださったことを紹介するだけなら、主に人を導くうえでは妨げになることがある。
「なんと素晴らしい人格の持ち主だろう」と言われるとしたら、その人は「花婿」の真の友人ではない。
ますます栄えるのは私であり、主はどんどん影が薄くなっているからである。
「花婿」に対するこのような友情と忠実さを保つためには、「花婿」に従うことはもちろん、何にもましてこの御方との霊的で生きた関係を失わないように心がけなければならない。
従うべきことが特にない時もある。
そんな時は、イエス・キリストとの生きた関係を保つことだけに心を用い、他の何ものによってもそれが損なわれないようにすることである。
従うべき時というのは、たまにしかやって来ない。
危機の際にはみこころを探り求めなければならない。
しかし人生の大半は、従順であろうと心がけることより、「花婿の友人」という関係を保つことに費やされるものである。
クリスチャンとしての奉仕さえも、たましいがイエス・キリストに向けるべき注意を逸らす手段となりかねない。
そうなれば、もはや「花婿の友人」ではなく、自分が神の摂理に取って代わり、神の武具を用いながら、神の働きに対抗することもなくはないのである。
God Bless You!!
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