2022年3月21日(月)

2022年3月21日(月)


『私はキリストとともに十字架につけられました。』ガラテヤ人への手紙2章19節から20節


私たちのそれぞれが避けることのできない霊的な必要とは、自分の罪の性質に死刑宣告を下すことである。
自分の感情による印象、知的信念に罪の性質があることを認め、それらを断罪することである。

パウロは「私はキリストとともに十字架につけられました」と言ったが、「私はイエス・キリストに倣う決意をした」とも、「イエス・キリストに従うためのあらゆる努力をする覚悟である」とも言っていない。

パゥロは「私はキリストの死において、キリストと一体化された」と言っているのである。

私たちがひとたびこの意志決定に至り、それに基づいて行動するなら、キリストが私のために十字架の上で成し遂げてくださったことのすべてが、私のうちに成し送遂げられる。

自分自身を無条件で神におゆだねすると、聖霊が働き、私をイエス・キリストの聖さにあずからせてくださるのである。

「もはや私が生きているのではなく………。」

私の個性はそのまま残るが、生きる根本目的や、自分を支配する性質は、根底から変わる。
私の肉体にはいささかの変化もない。
しかし、私に対する古いサタン的な権限は消滅したのである。

「今私が肉において生きでいるいのち」とは、私が生きたいと憧れ、祈り求めるいのちのことではなく、死すべき肉体にあって今生きているいのちのことであり、他者の目に映るいのちのことである。

「神の御子の信仰によって私は生きている」。

この信仰は、イエス・キリストに対するパゥロの信仰のことではなく、神の御子がパウロに与えてくださった信仰のことである。

それはもはや、信仰に対する信仰ではない。
考えうるあらゆる限界をものともしない信仰のことであり、神の御子と同じ信仰のことである。

God Bless You!!


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