2022年3月16日(水)

2022年3月16日(水)


『私たちはみな、……キリストのさばきの座の前に現れなければならないのです。』コリント人への手紙第二5章10節


牧師であろうが信徒であろうが、私たちはみな等しく「キリストのさばきの座の前に現れなければならない」とパウロは言う。

しかし、今、地上にいる間、キリストの聖い光のもとで生きるなら、最後のさばきが到来しても、あなたは神が自分にしてくださったみわざに歓喜するだけである。

キリストのさばきの座があることを常に心に留め、自分が知る最も聖い光の中を歩むのは今である。
あなたがどれほど聖徒と言われるにふさわしい人であっても、他の人に対して怒りの感情を持ったままでいるなら、悪魔の霊と大差なくなってしまう。

一つでも肉的な判断を下すなら、自分の心の中で地獄を味わうことになる。
ただちにそれを光の中に引きずり出し、こう言うのだ。

「わが神よ、私はその点で間違っていました」と。
そうでないと、あなたの心はどこまでも頑なになっていくだけである。

私たちが罪を受容してしまうこと自体が、罪に対する刑罰の一つである。
罪のゆえに罰を下すのは神だけではない。
罪そのものも罪人の中で幅を利かせ、その報いを少しも差し引いてはくれないのである。

あなたには、どれほど苦悶し、祈ったところで、どうしてもやめられないことがある。
罪の報いとは、あなたがその状態に慣れてしまうことであり、ついには、それが罪であると分からなくなってしまうことである。

どのような力をもってしても、聖霊から注ぎ込まれる力によらないかぎり、罪がもたらす結末を阻止することはできない。

「もし私たちが、神が光の中におられるように、光の中を歩んでいるなら……」。

光の中を歩むというのは、私たちの多くにとっては、他の人に適用する基準に従って歩む、という程度のことにすぎない。

今日の致命的なパリサイ的な態度とは、偽善ではなく、無意識に行っている偽りの生活なのである。

God Bless You!!


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