2022年3月15日(火)

2022年3月15日(火)


『イエスは弟子たちの先に立って行かれた。……ついて行く人たちは恐れを覚えた。』マルコの福音書10章32節


信仰生活の初めのころ、私たちはイエス・キリストのことをすべて知っている、という自信があった。
すべてを捨て、大胆に主への愛を表明し、自分を主の前に投げ出すことは歓喜であった。

ところが、今はそれがあやしくなっている。
私たちのずっと先を歩むイエスは、見知らぬ人のように見えるのである。

「イエスは弟子たちの先に立って行かれた。
弟子たちは驚き、ついて行く人たちは恐れを覚えた」

イエスには、弟子たちの心を芯まで震え上がらせるような雰囲気があり、そのために弟子たちの霊はあえぐほどであった。
この見慣れない御方が御顔を「火打石のように」固くし、決然と歩いて行かれる姿に私は恐れを覚えずにはいられない。

この御方はもはや私の助言者でもなければ、同志でもない。
この御方が目指しているものが何なのか、私には見当もつかない。
私はただ驚き、立ち尽くすのみである。

最初のうちは、主のことがわかっている、という自信があった。
しかし、今はそれが揺らいでいる。
イエスと自分との間には微妙な距離のあることが分かり始めた私は、もはや主と親しく接することができない。

主は私の前方を歩み、後ろを振り向くこともない。
主がどこへ向かって行かれるのか、私には全く分からない。
そればかりか、目的地は不思議なほど遠のいてしまった。

イエス・キリストは、およそ人間が経験する、ありとあらゆる罪と悲しみの深さを知らなければならなかった。
それこそが、イエスが見知らぬ御方のように思えた理由である。

この角度からイエスを見るとき、私たちはイエスのことを何も分かっていないばかりか、そのご生涯の特質を一つも認識できず、どのように従っていったらいいのかも分からないでいる。

イエスは私たちのはるか前方を歩んで行かれる。
そのお姿はまるで、見知らぬ指導者のようであり、仲間ではないかのようである。

このような困惑を経験するという訓練は、弟子として避けては通れない学課である。
主に対する熱心を取り戻そうとして、過去に熱心だったころの自分を回顧するのは危険である。

むしろ、困惑という暗闇がやって来たら、それが過ぎ去るまでじっと耐えることだ。
なぜなら、その経験を通ってこそ、真の意味でイエスに従う力が与えられるからである。
そのときの喜びはもはやどのようなことばによっても形容することはできない。

God Bless You!!


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