2022年3月14日(月)
『あなたがたが自分自身を奴隷として献げて服従すれば、その服従する相手の奴隷となるのです。』ローマ人への手紙6章16節
自分が何に支配されているかを吟味するにあたって、真っ先にしなければならないのは、自分が身をゆだねた対象が何であるにせよ、ゆだねた責任は自分にあるという不都合な事実に、しっかり向き合うことである。
もし私が自分の奴隷となっているなら、その責任は私にある。
過去のどこかで身をゆだねてしまったからである。
それと同様に、もし私が神に従っているなら、それは過去のどこかで私が神に身をおゆだねしたからである。
子どもがわがままに身をゆだねたとしよう。
すると、わがままほど断ち切ることの難しい束縛はない、と子どもにも身にしみて分かるはずである。
身をゆだねた結果形成された性質の拘束力を断ち切る力は人間にはないのである。
たとえば、ほんの一瞬、欲望に負けたとすると、妥協してしまった自分をどれだけ厭わしく思っても、その欲望の虜になってしまう。
「欲望」とは、「今、すぐ手に入れないと気がすまない」という思いのこと。
肉的な情欲の場合もあれば、心の欲求という場合もある。
そこから抜け出すことは人間の力」の及ぶところではない。
しかし、贖いの力によるなら話は別である。
あなたは心からへりくだって、あなたの人生を牛耳る力を打ち破ることのできる唯一の御方、すなわち、主イエス・キリストに身をゆだねなければならない。
「主はわたしに油を注がれた。
捕らわれ人に解放を告げるために」。
ごく些細なことにおいても、私たちはそれが事実であることを経験する。
「こんな悪習慣は、いつでも好きなときにやめることができる」と豪語しても、そうできないからである。
その悪習慣はあなたを捕らえて離さない。
自分のほうから身をゆだねてしまったからである。
「主はあらゆる枷を打ち砕きたもう」と賛美しながら、その一方では相変わらず自分の奴隷となっている、ということが起こりやすいのである。
しかし、イエスに身をゆだねるなら、だれであっても、あらゆるたぐいの奴隷状態に終止符が打たれるのである。
God Bless You!!
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