2022年3月1日(火)

2022年3月1日(火)


『あなたはわたしを愛していますか。』ヨハネの福音書21章17節


ペテロは、もはや何も宣言しない。
ほんの数日前は、「たとえ、あなたと一緒に死ななければならないとしても、あなたを知らないなどとは決して申しません」と言っていたのであったが……。

私たちの(神を知らない)自我は、自分の気持ちを告白し、宣言する。
しかし、(神を知る)真の自己の中にある愛は、イエス・キリストの問いかけで傷を受けて初めて、その存在が分かる。

ペテロはイエスを愛していたが、それは、だれでも立派な人を愛するものだ、というたぐいのものであった。
それは単なる感情的な愛であった。
自我の深くまで達するかもしれないが、真の自己の中心には届かない。

真の愛は、決して大言壮語しない。
「だれでも人々の前でわたしを認めるなら——つまり、ことばだけでなくあらゆる行動によって自分の愛を告日するなら——人の子もまた、神の御使いたちの前でその人を認めます」とイエスが言われた愛である。

自分自身を欺いてきたあらゆることに直面する、という痛みを経験していないとすれば、私たちは神のことばが自分のうちに働くのを妨げているのである。

神のことばは、どんな罪よりも深い痛みを私たちに加える。
罪はむしろ罪悪感を鈍らせるものである。

主の問いかけは、私たちの感受性を鋭敏にしないではいない。
イエスから受ける傷ほど、絶妙に計算された痛みはないと思うまで、それは続く。

その痛みは自然な段階にとどまらず、深い霊的な段階にまで及ぶ。
「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄を分けるまでに(つまり、欺きの入る余地がないほどにまでに)刺し貫く」のである。

主からの問いかけに対し、感傷に浸っている余裕はない。
主から直接語りかけられるときに、気の利いたことを言うことなどできない。
その痛みがあまりにも大きいからである。
その痛みのために、他のすべての関心事はもはやどうでもよくなってしまう。

主のみことばが神の子どもに臨む時の痛みが、誤って加えられることは決してない。
しかし、そのような痛みが感じられる時とは、神が非常に大切なことを私たちに示しておられる時なのである。

God Bless You!!


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