2022年2月9日(水)
『主は永遠の神、……疲れることなく、弱ることなく、……。』イザヤ書40章28節
疲労困憊とは、活力を使い果たしてしまった状態のことである。
霊的な疲労困憊は、決して罪の結果などではなく、奉仕の結果にほかならない。
そのような極度の疲労を経験するかどうかは、あなたがどこを供給源としているかにかかっている。
イエスはペテロに「わたしの羊を養いなさい」と言われた。
ところが、養うために必要なものは何一つお与えにならなかった。
あなたがパンのように裂かれ、ぶどう酒のように注がれるという過程を通らなければならないからである。
それは、人が自ら神に養われることを覚えるまで、あなたがその人々のたましいの食物とならなければならない、という意味である。
彼らはあなたを最後の一滴まで飲み干すしか方法がない。
あなたは補給を怠ってはならない。
さもないと、完全に枯渇してしまうからである。
主イエスのいのちを直接自分で汲み取ることを覚えるまで、人はあなたを通して主のいのちを汲み出す以外に方法がないのである。
彼らが、神ご自身に養っていただくことを覚えるまで、あなたは文字どおり、彼らの供給源にならなければならない。
王はもちろんのこと、主の子羊や羊たちのためにも自分が最善の状態でいなければならない義務を、私たちは神に負っている。
今まで神に仕えてきた結果、待っていたのは予期せぬ疲労困憊だっただろうか。
もしそうなら、まず気持ちを立て直すことだ。
そもそも奉仕を始めたのはどこからだったか。
自分の同情心か。
それともイエス・キリストの贖いに土台を据えたものか。
あなたの思いやりを支えていたものに絶えず立ち返り、力の根源がどこにあるのかを思い出せ。
「ああ、主よ、私は疲れ果てました」とこぼす権利は、そもそもあなたにないのである。
主があなたを救い、聖別してくださったのは、あなたを疲れ果てさせるためだったのである。
神のために自らを使い果たせ。
しかし、主があなたの供給源であることを忘れてはならない。
「私の泉はみな あなたにあります」とあるとおりである。
God Bless You!!
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