2022年2月4日(金)
『キリストの愛が私たちに強く迫っている。』コリント人への手紙第二5章14節
パウロは自分が「キリストの愛」により、まるで万力で押さえつけられたように圧倒され、従うほかなくなったと言っている。
このように、自分が神の愛にしっかりと握られる、とはどういうことかわかっている人は、きわめて少ない。
私たちは自分の経験だけに縛られやすいのである。
他のすべてが見えなくなるまでパウロを捕らえて離さなかったものは、神の愛であった。
「キリストの愛が私たちに強く迫っている」
このような響きが聞こえてくるなら、間違いなく、神の御霊はその人の中で、自由に働いておられるのである。
私たちが神の御霊によって新生すると、神が私たちにどんなことをしてくださったかが証しの基調となる。
そしてそれは正当なことである。
しかし、ひとたび聖霊が私たちの上に臨むと、それは跡形もなく、永遠に消えてしまう。
その時になって初めて、「あなたがたはわたしの証人となります」とイエスが言われたことの意味が分かり始めるのである。
イエスにはどんなことができるのか、ということの証人ではない。
それは初歩の証しにすぎない。
そうではなく、イエスを証しする証人、ということである。
称賛であれ非難であれ、また迫害であれ推奨であれ、あたかもそれがイエスの身の上に起きているかのように、私たちがそれを受けるということなのである。
イエスご自身のご威光に迫られた経験のある人でなければ、だれ一人、イエス・キリストのために自分をこのような立場に置くことはできない。
これほど重要なことはほかに一つもないはずなのに、奉仕者がそれにほとんど気づかないでいるのは不思議なことである。
「自分がそのように行動したのは、ひとえに神の愛に捕らえられているからだ」とパウロは言った。
人々が彼のことを気が変になっていると言おうが、正気だと言おうが、意に介さなかった。
パウロの人生の目的はただ一つであった。
それは神の来るべき審判とキリストの愛を人々に説き、それを納得させることであった。
キリストの愛に自分のすべてを任せきること以上に人生を実り豊かにするものはない。
そのような生き方が後に残す印象は、神の聖さと力であって、その人自身の聖さではない。
God Bless You!!
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