2022年2月3日(木)
『私たちはこの世の屑、あらゆるものの、かすになりました。』コリント人への手紙第一4章13節
上記のことばは、決して誇張表現ではない。
福音の奉仕者を自認している私たちにそれが当てはまらないとすれば、その理由は、パウロがそのことばをうっかり誤用してしまったからではなく、私たち自身が「この世の屑」になってしまわないように、ほうぼうに気を遣っているためである。
「自分の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たす」のは、聖化された証拠ではなく、「神の福音のために選び分かたれた」証拠なのである。
「愛する者たち。
あなたがたを試みるためにあなたがたの間で燃えさかる試練を、何か思いがけないことが起こったかのように、不審に思ってはいけません」。
遭遇する出来事を、何か思いがけないことのように思うなら、それは私たちが臆病だからである。
私たちはほうぼうに気を遣い、苦境の泥沼に陥らないように用心して、こう言う。
「そこまで身を落とすつもりはありません」と。
たしかに、そもそもそうしなければならない義務はない。
いわば「首の皮一枚で」救われることを望めないことはない。
「福音のために選び分かたれた」者として神に認められるのを拒むこともできる。
しかしその反対に、「福音が宣べ伝えられるのであれば、この世の屑同然の扱いをされても構わない」と言うこともできる。
イエス・キリストの本当のしもべとは、神の福音が現実のものであることを証しするためなら、殉教もいとわない人のことである。
単に良心的な人であれば、侮蔑や不道徳、裏切りや不正直という、人間の善性と相容れない現実を目の当たりにすると、尻込みし、絶望して心を閉ざしてしまう。
ところが、神の贖いの現実とは実に驚くべきもので、最低、最悪の罪人すら、神の愛の深さを経験し尽くすことは決してできないのである。
「神が私を選ばれたのは、神のおかげでどんなに立派な人間になれたかを示すためだ」とは言わず、神は「御子を私のうちに啓示するため」と、パウロは述べている。
God Bless You!!
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