2022年2月28日(月)

2022年2月28日(月)


『「ですから私たちは、……信じます。」イエスは彼らに答えられた。「あなたがたは今、信じているのですか。」』ヨハネの福音書16章30節〜31節


「今こそ私たちは信じます。」

ところがイエスは言われる。
「今、信じているのですか。
見なさい。
あなたがたがわたしを一人残す時が来ます」と。

数多くのクリスチャンの働き人が、イエス・キリストを一人あとに残し、義務感から、あるいは必要があるとの自分の判断から、働きを始めてしまう。

このようになる原因は、イエスの復活のいのちが欠如していることにある。
自分なりの信仰理解に頼って、たましいが神との親密な交わりから離れてしまったのである。

それ自体に罪はないし、それに付随する罰則もない。
しかし、あとになって、イエス・キリストを理解する妨げになっていたのは自分自身であったこと、そして不安や後悔、また苦労を生み出していたのが自分であったことを悟ると、来た道を引き返すにも恥と悔恨の思いがつきまとう。

私たちは、今よりももっと深いところでイエスの復活のいのちに拠り頼み、あらゆることについて絶えず主にうかがう習慣を身に着ける必要がある。

常識的な判断を下しておいて、それらを祝福してください、と求めるようであってはならない。
それらを主が祝福することができないのは当然である。
主が関わる領域でないうえに、そのような判断は現実にそぐわないからである。

私たちが義務感から何かをするなら、イエス・キリストに対抗する基準を設けることになる。
私たちは、自分がすぐれているように錯覚し、「この件について、私はこのこと、あのことをしなければならない」と言う。

イエスの復活のいのちの代わりに、義務感を王座に押し上げてしまったのである。

私たちは、自分の良心や義務感という「光」の中を歩むように命じられてはいない。
「神か光の中におられるように、光の中を歩む」ように命じられているのである。

義務感から何かをするなら、自分の行動は理屈で説明できる。
しかし、主に従って何かをしても、理屈では説明できない。
だからこそ、聖徒は人から冷笑されやすいのである。

God Bless You!!


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