2022年2月25日(金)

2022年2月25日(金)


『私があなたがたを愛すれば愛するほど、私はますます愛されなくなるのでしょうか。』コリント人への手紙第二12章15節


生来の愛は何かの見返りを期待する。

しかし、パウ口は言う。
「あなたがたに愛されるかどうかは、問題ではない。
極貧になることも覚悟の上である。
それは単にあなたがたのためではなく、あなたがたを神のもとに導くためである」と。

「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。
すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました」とあるが、奉仕に対するパウロの考えも、私たちの主のお考えと変わるところはなかった。

そのために支払う代価がどれほど高いものであろうとパウロは気にしなかった。
喜んで支払う気持ちであった。
パウロにとって、それは喜ばしいことだったのである。

組織化された教会による神のしもべの姿は、イエス・キリストのお考えとは似ても似つかない。
人々のしもべになってキリストにえることが主のお考えだからである。

実にイエス・キリストは、社会主義者のはるか上を行く御方である。
御国において一番偉いのは、すべての人のしもべになる人である、と主は言われた。

聖徒の真価は、福音の説教ではなく、弟子たちの足を洗うこと、つまり、人には実際に評価されなくても、神が高く評価してくださることをするかどうかにかかっている。

パウロは、人々に対する神のみこころのとおりに自分の人生を使い尽くすことを喜び、その代償を気にすることはなかった。

ところが私たちは、経済的な心配について思案してしまう。
「神が私に、あそこに行け、と言われたらどうしよう。
手当はどれくらいもらえるのか。気候はどうか。
支援体制は整っているか。
事前にしっかり考えておかなければならない」というように。

そのようなことはどれも、私たちが条件付きで神に仕えていることを示している。
しかし使徒パウロには、いかなる条件も留保もなかった。

パウロは、新約の聖徒とはどういうものかという、イエス・キリストのお考えに、自分の人生の焦点を合わせていた。

つまり新約の聖徒とは、単に福音を宣べ伝える者のことではなく、他の人々のために、自らがイエス・キリストの御手にあって、裂かれたパン、注ぎ出されたぶどう酒となる人のことである、と理解していたのである。

God Bless You!!


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