2022年2月24日(木)

2022年2月24日(木)


『私は、あなたがたのたましいのために、大いに喜んで財を費やし、自分自身を使い尽くしましょう。』コリント人への手紙第二12章15節


ひとたび「聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれる」と、私たちは、人々に対するイエス・キリストの関心を自分の関心とするようになる。

ところが、イエス・キリストはありとあらゆる種類の人に関心を持っておられる。
したがって、私たちが自分の好みに従ってクリスチャンとしての奉仕をする権限は全くない。

この点は、私たちとイエス・キリストとの関係をためす、まさに最大の試金石の一つである。

犠牲の喜びとは、私の友であるイエスのために、自分のいのちを投げ出すときに経験するものである。
いのちを投げ捨てるのではない。
主のために、また人々に対する主の関心のために、覚悟を決めて明け渡すのである。

決して大義名分のためではない。

パウロはたった一つの目的のために自分の人生を費やした。
その目的とは、人々をイエス・キリストに導くことであった。
パウロは人々の注意が自分にではなく、主に向くように常に心がけた。

「私はすべての人に、すべてのものとなりました。
何とかして、何人かでも救うためです」。

神と二人だけになって聖なる生活を築き上げていかなければならない、という人がいたら、その人は他の人々にとってもはや無用の存在である。
これでは、自分自身を台座に載せ、世間一般と隔絶するも同然である。

パウロは聖なる人物となっていった。
しかしそれは、行くところどこにおいても、イエス・キリストが自由に自分の人生に介入されるのを受け入れていたからである。

私たちの多くは自分自身の目標にしか興味がない。
それでは、イエス・キリストが私たちの人生に自由に介入することはできない。
しかし、主に自分を全面的にゆだねるなら、自分が達成したい目標というものはなくなる。

パウロは、どのようにして自分が「玄関マット」になるか心得ていたばかりか、それを少しも恨めしく思っていなかった。
それは人生の原動力がイエスへの献身であったからである。

私たちはイエス・キリストに全面的に献身するより、自分を霊的に解放してくれるものに熱中しやすい。
しかし、それはパウロの動機ではなかった。

それどころか、「私は、自分の兄弟たち、肉による自分の同胞のためなら、私自身がキリストから引き離されて、のろわれた者となってもよいとさえ思っています」と述べている。

突拍子もない、大げさな言い方だろうか。
決してそうではない。

イエスを愛している者にとっては、誇張でもなんでもないのだ。
パウロはそれほどまでに主を愛していたのである。

God Bless You!!


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