2022年2月23日(水)

2022年2月23日(水)


『人の子は、仕えられるためではなく仕えるために……来た。』マタイの福音書20章28節


イエスは言われた。
「わたしはあなたがたの間で、仕える者のようにしています」。

奉仕についてパウロは主と同一の考え方をしていた。
「私たち自身は、イエスのためにあなたがたに仕えるしもべなのです」と。

牧師職に召されるような人は、他の人とは違い、格上の人だという考えを私たちは持ちやすい。
しかし、イエス・キリストによれば、他の人に踏まれる「玄関マット」になるようにと召されているのである。

霊的指導者として召されてはいても、決して上の立場になるわけではない。
「私は、さげすまれた場合の対処も心得ている」とパウロは語った。

奉仕とは、力尽きるまで自分のいのちを人のために注ぎ出すことだ、とパウロは考えていた。
その結果、自分が称賛されようと、非難されようと、気にすることはなかった。

ィエスを知らない人が一人でもいるかぎり、その人が確かにイエスを知るまで、自分は負債があると感じていた。
しかし、パウロの奉仕を成り立たせた最大の原動力は、人々に対する愛ではなく、イエス・キリストに対する愛であった。

人類のために、と献身するなら、私たちはたちどころに押し潰され、心挫けてしまうことだろう。
人々から感謝されることはきわめて稀で、その点で言えば、犬のほうが受けた恩を覚えているくらいである。

しかし、もし私たちが神への愛を動機として仕えるのであれば、どれほど恩知らずなことをされようとも、人に仕えることができないということにはならない。

パウロは、キリストが自分をどのように扱ってくださったかを理解していた。
それが、人々に仕える決意をパウロが持つうえでの秘訣となった。

「私は以前には、神を冒潰する者、迫害する者、暴力をふるう者でした」。

つまり、人々がパウロにどれほどひどい仕打ちをしたとしても、パウロがかつてイエス・キリストに示した悪意と憎しみに比べれば何でもないというのである。

私たちの卑しさと利己心、そして罪の極みまで、キリストが面倒を見てくださったことが一旦分かると、人々からどのような扱いを受けようとも、主のために人々に仕えようという決意は尽きることがない。

God Bless You!!


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