2022年2月2日(水)

2022年2月2日(水)


『福音を宣べ伝えないなら、私はわざわいです。』コリント人への手紙第一9章16節


神の召命に耳をふさぐことのないよう気をつけよ。
救われた人はもれなく、救われた事実を証言するように召されている。
ただし、それは伝道への召しと同一ではなく、伝道における一つの例証にすぎない。

本節で、パゥロは福音を語れという切迫感がもたらす疼きに言及している。
救いを求めて神のもとに来る人々への伝道に、パウロのこのことばを決して当てはめてはいけない。
救われることほど容易なことはないからだ。

「わたしを仰ぎ見て救われよ」とあるように、救いは、主権者なる神のみわざである。
弟子に求められる条件を救いの条件として示されたことは一度もない。
キリストの十字架を通れば、いやでも救われるように定められている。

しかし、弟子となるかどうかには、「もし」という選択の自由がある。
パウロのことばは、私たちがイエス・キリストのしもべとされるかどうかに関係するものである。

私たちが何をするか、どこへ行くかについて、私たちが主から許可を求められることは決してない。
神は、ご自身が満足のいくように、私たちを、いわば「裂かれたパン」「注ぎ出されたぶどう酒」とされるのである。

「神の福音のために選び出され」とは、神の召しがついに聞こえたことを意味している。
ひとたび、その召しが聞こえると、キリストの御名にふさわしい苦悩が生じる。

突然、ありとあらゆる人生の夢、願望、そして前途が泡と消え、消滅し、残るのは「福音のために選び出された」という、たった一つの事実だけとなる。
このような召しを受けながら、それ以外の道に進もうとする人はわざわいである。

このバイブル・トレーニング・カレッジ(チェンバーズが校長を務めていた)が存在するのは、神の福音を宣言することを心から願う学生がここに一人でもいるかどうか、またその目的のために神があなたをしっかり捕らえてくださったかどうかを知るためである。

神があなたを捕らえておられるなら、それに対抗するものへの注意を怠ってはならない。

God Bless You!!


a:38 t:1 y:0