2022年2月15日(火)
『私たちの中でだれ一人、自分のために生きている人はなく、……。」ローマ人への手紙14章7節
あなたは神の前に、他の人々に対する霊的な責任がある、と気づいたことがあるだろうか。
たとえば、私生活で私が神のみこころから逸れたとすると、私と関わりを持つあらゆる人が苦しむことになるのである。
私たちは「ともに天上に座らせて」いただいたからである。
「一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しむ」のである。
もしあなたが、行動において自分勝手であり、精神的には軽率で、道徳的に無神経で、霊的に鈍感であれば、あなたと接する人はみな苦しむことになる。
しかし、あなたはこう尋ねることだろう。
「そのように高い基準にかなう生活のできる人がはたしているのだろうか」と。
「私たちの資格は神から与えられるもの」であり、神以外から来ることはない。
「あなたがたは……わたしの証人となります」
イエス・キリストのために、自分の神経、知性、道徳心、霊的な精力のすべてを使う覚悟を持った人が、私たちの中に何人いるだろうか。
「証人」という語を神がお使いになるときに意味しておられるのは、そういうことなのである。
しかし、それには時間を要するうえ、自分に対する忍耐も必要である。
そもそも神はなぜ私たちを地上に残されたのだろうか。
単に救われるため、また聖められるためなのだろうか。
そうではない。
神に仕える働きに勤しむためなのである。
神のためには、自分というパンが裂かれ、自分というぶどう酒が注ぎ出される覚悟があるだろうか。
自分がこの時代や人生において無価値の存在となったとしても、たった一つの目的、すなわち主イエス・キリストに仕える人々を訓練するために用いられるなら、それで構わないだろうか。
神に仕える私の人生こそは、ことばに尽くせない神の素晴らしい救いに対する、私の感謝の表現なのである。
だれであっても、もし神に仕えることを拒むなら、神が私たちを「捨てられた銀」として退けることは十分にありうることを忘れてはならない。
「ほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者にならない」ためである。
God Bless You!!
a:45 t:2 y:0