2022年2月12日(土)

2022年2月12日(土)


『彼らはモーセに言った。「あなたが私たちに語ってください。私たちは聞き従います。しかし、神が私たちにお語りになりませんように。さもないと私たちは死んでしまいます。」』出エジプト記20章19節


私たちは意識して神に従わないわけではない。
神に注意を払っていないだけである。

神は命令を下された。
命令は確かに届いた。
ところが私たちはそれらを気にも留めない。

故意に不従順なわけではないが、神を愛さず、敬ってもいないのである。

「もしわたしを愛しているなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです」とあるが、ひとたび、神をずっとないがしろにしてきたことに気づくと、私たちは神を無視してきたことに対する恥と申し訳なさでいっぱいになる。

「あなたが私たちに語ってください。
……しかし、神が私たちにお語りになりませんように」とイスラエル人は言った。

神よりも、神のしもべのことばが聞きたいと言う私たちは、いかに神を愛していないかを露呈している。
個人の証しは喜んで聞くが、神ご自身が私たちに直接語られることは望まないのである。

神が語られるのをなぜそれほどまでに恐れるのだろうか
その理由は、神が語られると、自分に求められていることを実行するか、さもなければ、従うつもりがないと神に告げなければならないからである。

それに対して、私たちに語りかけているのが神のしもべの一人にすぎないのであれば、従うことは義務ではなく、「それはあなたの考えにすぎません。
それがおそらく神の真理であることまで否定するつもりはありませんが」と言うことができるのである。

神が私をご自身の子どもとして扱ってくださったのに、私はその間ずっと神を無視する、という屈辱的な立場に神を置いてきたのではないだろうか。

私に神の御声がはっきりと聞こえると、神に対する今までの屈辱が私にはね返ってくる。
「主よ、なぜ私はこれほどにも鈍感で、しかも頑固でいられたのでしょう」と応答せざるを得ない。

神の御声が聞こえると、いつもこのような結果となる。
神の御声を聞くことができた真の喜びも、そうなるまでにこんなに長い時間がかかったことへの恥ずかしさで、薄らいでしまうものである。

God Bless You!!


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