2022年10月9日(日)
『あなたがたの手足を義の道具として神に献げなさい。』ローマ人への手紙6章13節
私には自分を救うことも聖めることもできない。
罪のための贖いをすることができない。
世を贖うことができない。
間違いを正す力がない。
汚れたものを清くすることができない。
邪悪なものを聖くすることができない。
これらはみな神がその大権によってなしたもうみわざである。
イエス・キリストがなしてくださったことに対する信仰を私は持っているだろうか。
キリストは罪に対する完全な贖いを成し遂げてくださった。
それを常に覚えることが私の習慣になっているだろうか。
私たちに一番必要とされているのは、何かをすることではなく、信頼を置くことなのだ。
キリストによる贖いは一つの経験としてすませるべきことではなく、神がキリストを通してなしてくださった偉大な神のみわざである。
ゆえに私はその上に自分の信仰を築かなければならない。
もし自分が経験したことの上に信仰を築いていくなら、私が生み出すものは、聖書の教えとはおよそかけ離れたもの、すなわち自分が聖いかどうかにだけ関心を持つ隠遁生活となる。
主の贖いを前提としない「敬虔さ」には警戒しなければならない。
そこにはこの世と隔離された生活があるだけで、ほかに何の価値もない。
神にとって無益であるだけでなく、人には迷惑である。
あなたが経験することは、それが何であれ、私たちの主ご自身を基準に測らなければならない。
つまり、キリストの十字架による贖いを前提にした人生を築くのでなければ、私たちには神に喜ばれることなど何一つできないのである。
イエスの贖いは、実際的で謙虚な生き方として、私の生活の中に実を結ばなければならない。
神に従うたび、絶対的な神が私の側についていてくださる。
それは神の恵みと私の従順が車の両輪となるためである。
従順とは、私がキリストの贖いにすべてを賭したことを意味する。
するとただちに、私の従順に応えるかのように、常識を超えた神の恵みと喜びが臨む。
禁欲的な「敬虔深さ」には警戒が必要である。
それはまがい物である。
贖われたという自覚がどこにどう反映しているか、この点はどうか、あの点はどうか、と自分に問いかけることが必要である。
God Bless You!!
a:16 t:1 y:0