2022年10月5日(水)

2022年10月5日(水)


『こういうわけで、ちょうど一人の人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして、すべての人が罪を犯したので、……。』ローマ人への手紙5章12節


聖書は、一人が罪を犯したため神は人類を罰したとは言わず、罪の特性、つまり自分に対する権利は自分にあるという主張が、一人の人を通して人類に入ったと教えている。

そして別の一人が人類の罪の責任を負い、それを取り除いた、と。
これは前者とは比べものにならないほど深遠な啓示である。

罪の特性とは不道徳や悪事のことではない。
むしろ、「私の神とは私のことである」と主張して自己実現へと向かう特性のことである。

この特性は、礼儀にかなった道徳心としても現れるし、無作法な不道徳としても現れる。
しかし、その土台はいつも共通している。
自分のことは自分で決める権利がある、という主張である。

私たちの主は、心が悪に染まった人だけでなく、清く正しい生活をしている人にも出会われたが、その際、道徳的な堕落や、道徳的な立派さにはいっさい目を留めることはなかった。

私たちには見えない、人の特性をご覧になっていたのである。

罪とは、私がもって生まれたものでありながら、私が触れることのできないものである。
しかし、神は贖いを通して罪に触れてくださった。

神はイエス・キリストの十字架を通して人類全体を、人が受け継いできた罪の性質を理由としてさばかれることが決してないように、贖ってくださったのである。

人が受け継いできた罪の性質を持っていることに対して神が責任を問われる、と書かれている箇所は一つもない。

神の前に有罪とされるのは、受け継いだ罪の性質が私にあるからではなく、イエス・キリストが私を救うために来られことを知りながら、イエスの救いを拒む場合である。

その瞬間から、さばきの烙印が押されるのである。

「そのさばき(命運が決定づけられる時)とは、光が世に来ているのに、自分の行いが悪いために、人々が光よりも闇を愛したことである」。

God Bless You!!


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