2022年10月4日(火)

2022年10月4日(火)


『聖徒になるように召された人々へ。」コリント人への手紙第一1章2節(英訳)


自分の将来の姿を、あらかじめ見ることができるのはありがたいことである。

あなたは将来の幻を見た。
しかし、まだ現実にそうなったわけではない。

低地に立ってこそ、私たちが選ばれた者となるのかどうか、その真価が試されるというのに、私たちの大半はそこで尻込みしてしまう。

幻のうちに示された姿に私たちが変えられるためには、衝撃を避けて通れないのに、それを受ける覚悟がないのである。
私たちの未到達の姿、そして、神が私たちに望んでおられる姿を私たちは見た。

しかし、「鉄が暗黒の地の深みから掘り出され、恐怖の炎で真っ赤に熱せられ、冷たい水に浸されて悲鳴を挙げ、運命という衝撃で何度となく打ち叩かれた後、やっと形が整えられ、役に立つようにされる」という将来の幻を受け入れる覚悟はあるだろうか。

幾度となく私たちを打ちのめす出来事は、常にごく普通の場面で、ごく普通の人々を通してやって来る。

神のみこころがはっきり分かる時がある。
しかし将来に関わるその幻を、自分という人格に取り込むかどうかは私たち次第であって、神によるのではない。

幻を見た過去の思い出に浸り、霊的に高揚した「山頂」でくつろぐことを望むなら、私たちは無用の存在となるだけである。

人生の大半を占めるのはごく普通の出来事だからである。

私たちは、将来に対する幻として見たことを拠りどころに生きるすべを身につけなければならない。
忘我の境地に至るとか、神を瞑想することではなく、将来についての幻が現実となるまで、それを踏まえて生きていかなければならないのである。

私たちが受ける訓練は、どんな小さなこともみな、その方向に向けられているのである。
神がご自身の要求を知らせてくださったことに感謝できるようにならなければならない。

しかし、神に「これをせよ」と言われると、小さな「王様」は不機嫌になる。
「わたしはある、という方が私を遣わされたのだ」という神の憤りの前に、小さな王様は縮み上がるべきである。

神こそ真の支配者なのだ。
神は私たちが住む場所も、逃げ込む場所もご存じなのだから、観念するほかはない。

神は電光石火のごとく、私たちを追いつめ、捕らえることがおできになる。
神ほど人間をご存じの方はおられないのである。

God Bless You!!


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