2022年10月29日(土)
『神は、罪を知らない方を私たちのために罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです。』コリント人への手紙第二5章21節
現代では、イエスが私たちの罪のために死んでくださったのは、私たちへの同情が動機であるという見方が主流である。
しかし新約聖書の見方によれば、イエスが私たちの罪をご自分が担われたのは、同情からではなく、私たちと同一になるためであった。
そのためにイエスは罪とされたのである。
私たちの罪はイエスが死なれたために取り除かれた。
そして、なぜイエスが死んでくださったのかといえば、私たちに同情を寄せてくださったからではなく、御父に服従されたからである。
私たちが神に受け入れられたのは、私たちが神に従ったからではなく、また何かを捨てると誓ったからでもなく、キリストが死んでくださったからである。
これ以外の説明はない。
イエス・キリストが来られたのは、神が私たちの御父であること、また神のご慈愛を示すため、と私たちは言う。
しかし新約聖書によれば、イエスが来られたのは「世の罪を取り除く」ためなのである。
そして、神が御父であることは、イエスを救い主として知らされた人だけに示されたのである。
イエス・キリストはこの世に対して、御父を示す存在としてご自身を語ることは一度もなかった。
むしろ、ご自身をつまずきの石と言われたほどである。
「わたしを見た人は、父を見たのです」ということばは弟子たちに向かって語られたものである。
キリストは私のために死んでくださった。
それゆえ私は刑罰を受けないですむ、という教えは新約聖書のどこにもない。
新 約聖書が教えるのは、「キリストはすべての人のために死なれました」ということである。
「私に代わって死んでくださった」のではなく、イエスの死はすなわち私自身の死であると理解したときに、私は罪から解放され、イエスの義そのものを贈り物として分け与えられるのである。
新約聖書が教える「身代わり」には、二重の意味がある。
「神は、罪を知らない方を私たちのために罪とされました。
それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです」とあるとおり、自分のうちにキリストが形造られる決意がなければ、「キリストは私のために……」という教えは意味をなさないのである。
God Bless You!!
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