2022年10月16日(日)

2022年10月16日(日)


『だから、収穫の主に、ご自分の収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。』マタイの福音書9章38節


宣教に関わる問題を解く鍵は神の御手の中にある。
その鍵は祈りにあり、一般的な意味での働きにはない。
働きに心を奪われ、神に焦点が合わなくなる可能性があるからである。

宣教上の問題を解く鍵は、常識の中にも、医療や文明、教育の中にも、あるいは福音伝道の中にすらない。
その鍵は祈りの中にある。

「収穫の主に祈りなさい」とあるが、神を度外視すれば、祈りは実際的でないどころか、ばかげている。
常識的な観点からは、祈りは愚かにしか思えないものだということを、私たちは自覚していなければならな
い。

イエス・キリストからご覧になれば、国家の区別はなく、この世があるだけである。
人々を分け隔てせず、イエス・キリストがどうご覧になるかということだけを考えて祈る人がどれだけいるだろうか。

苦悩と罪の自覚によって生み出された収穫の所有者はキリストである。
刈り入れる働き人を送ってください、と私たちが祈らなければならない収穫とは、まさにこれなのである。

私たちが余裕を失うほど忙しく働いている間に、周囲の人々はみな実りの時を迎え、刈り入れを待っている。
それなのに、私たちはその一人も刈り入れないどころか、様々な活動やプログラムに余計な精力を注いで、主の時を無駄にしているのである。

仮に、あなたの父親、または兄弟に危機的状況が訪れたとしよう。
あなたはイエス・キリストのために、収穫の働き手としてそこに行くだろうか。
それとも、「残念だが特別な仕事があるので行かれない」と言うだろうか。

特別な仕事があるクリスチャンなど一人もいない。

クリスチャンとは、イエス・キリストご自身のものとして召された人のことであり、「しもべは主人にまさっていない」以上、自分がしようとしていることをイエス・キリストに指図する者ではない。
主は私たちを何か特別な働きにではなく、ご自身のもとに召しておられるのだ。

「収穫の主に祈れ。」

そうすれば、主はあなたの環境を巧みに処理し、ご自分の働き手としてあなたを遣わしてくださることだろう。

God Bless You!!


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