2022年10月15日(土)

2022年10月15日(土)


『この方こそ、私たちの罪のための、いや、私たちの罪だけでなく、世全体の罪のための宥めのささげ物です。』ヨハネの手紙第一2章2節


宣教のメッセージの中心は、宥めのささげ物、キリスト・イエスである。
その犠牲により神の御怒りは完全に鎮められた。

キリストによるその他の働きは、人の病を癒やすことであれ、人を救い清めることであれ、無限に続くものではない。
しかし、「世の罪を取り除く神の子羊」は無限である。

宣教者が携えていくメッセージとは、私たちの罪のために宥めのささげ物となられたイエス・キリストの無限の重要性である。
そして宣教者とは、啓示されたこの真理に自分を投入した者のことである。

宣教のメッセージの本質は、罪の赦しをもたらすという観点から見たキリストのご生涯であって、キリストの優しさでもなければ、親切でもなく、神は私たちの御父であると示してくださったことですらない。

キリストが、私たちの罪のための宥めのささげ物であるということが、無限に重要なメッセージなのである。
このメッセージは、特定の国や個人をことのほか重んじるものではなく、「世全体」のためのものである。

聖霊が私に入ってくださっても、私の好みを考慮されることはない。
聖霊は私を主イエスと一つにしてくださるだけである。

宣教者とは、自分の主であり君主である方から授けられた、罪の赦免の権限と不可分の関係にある者のことである。
彼の使命は自分の見解を述べることではなく、「神の子羊」を説くことにある。

イエス・キリストが自分にしてくださったことを仰々しく語ったり、神の癒やしを強調したり、特別な聖化や聖霊のバプテスマを強調したりするのは、それに比べるとはるかに易しい。

しかし、パウロは、「福音を宣べ伝えないなら、私はわざわいです」と言ったのであって、「キリストが私のためにしてくださったことを宣べ伝えないなら、わざわいです」とは言っていない。

「世の罪を取り除く神の子羊」こそが福音なのである。

God Bless You!!


a:11 t:1 y:0