2022年10月13日(木)
『こうして日がたち、モーセは大人になった。彼は同胞たちのところへ出て行き、その苦役を見た。』出エジプト記2章11節
モーセは同胞の民が抑圧に苦しむのを見て、自分こそが彼らを解放する者であると確信した。
そして正義の怒りに燃えて、悪を正そうとした。
モーセは神のため、また正義のため、最初の攻撃を試みたが、それは無残にも失敗した。
その後、モーセは虚しく失意の中を通り、荒野で四十年にもわたって羊の世話をする破目になった。
神がそうなることを許されたのである。
その四十年が終わろうとするころ、神はモーセに現れて、「わたしの民、イスラエルの子らをエジプトから導き出せ」と仰せられた。
しかしモーセは神に言った。
「私は、いったい何者なのでしょう。
ファラオのもとに行き、イスラエルの子らをエジプトから導き出さなければならないとは」と。
当初、民を解放するのは自分だとモーセは分かっていたのであったが、その前に、神から受けるべき訓練があったのである。
モーセの見方は間違ってはいなかった。
しかし、神と交わって一つになるという経験がなければ、そのような役割を果たすことは所詮無理だったのである。
私たちにも神のビジョンがあるかもしれない。
そして、神が望んでおられることを明確に理解しているかもしれない。
ところが、それに着手しようとすると、モーセが荒野で過ごした四十年に似たことが起きる。
すると、神が一切のことを気にかけておられなかったようにすら思えてしまうのである。
そして私たちが失望のどん底にいると、神が戻って来て、私たちを新たに召してくださる。
私たちは震えながら言う。
「私は、いったい何者なのでしょう」と。
神が踏み出そうとしておられる偉大な最初の一歩は、「わたしはあるという方が私を遣わされたのだ」ということばから始まることを知らなければならない。
私たちが神のために何をしようと、それが個人の努力にすぎなければ、神に無礼であると知らなければならない。
私たちの個性は神との個人的な関係があって初めて輝く。
そして神はそれを喜んでくださるのである。
私たちが個人の立場から正しく判断できたとしても、またビジョンが与えられて、「これこそ神が私に望んでおられることだ」と言えたとしても、まだ神の歩みについていくには至らない。
しかし、失意の時期をあなたが今通過しているということは、少なくとも前方に、あなたを飛躍的に成長させる時が待っている、ということである。
God Bless You!!
a:13 t:1 y:0