2022年1月29日(土)

2022年1月29日(土)


『主よ、あなたはどなたですか。』使徒の働き26章15節


「まことに、主は強い御手をもって私を捕らえ、…私を戒めてこう言われた」。

主がお語りになるとき、そこから逃げることはできない。
主が臨まれると、私たちはもはや勝手な理解はできなくなる。

神のその御声はあなたに直接届いたか。
もし届いたなら、あなたに親しく語られた要求を聞き間違えることはありえない。

それはあなたが一番よく知っている言語、つまり、耳を通してではなく、あなたが今置かれている状況を通して語られたものだからである。

私たちが自分の確信に対して持っている強固な自信を、神は粉砕しないわけにはいかない。
「自分がなすべきことはこれだと分かる」と私たちは言う。

すると、突然、神の御声が発せられ、私たちが本当は何もわかっていないことを示して、私たちを圧倒する。
神に仕えようとして決めた方法そのものが、私たちの神に対する無知をさらけ出してしまうのである。

私たちはイエスにふさわしくない心でイエスに仕え、イエスを弁護しようとしてかえってイエスに損害を与え、悪魔的な精神で主の主張を後押しする。
発することばには何の問題もないように思えるが、心は敵の陣営を代弁している。

「あなたがたは自分がどのような心でいるかわかっていないのです」
(英訳:日本語訳はこの部分が欠落)
主に仕える者たちが持つべき主の心はコリント人への手紙第一、13章に描かれているものである。

自分のやり方で主に仕えようと熱心になるあまり、私はイエスを迫害してきたのではないだろうか。
たとえ自分の義務は果たしたと感じたとしても、その過程で主に損害をもたらしたなら、そもそもそれは私の義務ではなかったのだ。
柔和で穏やかな霊ではなく、自己満足の心を育んだにすぎないからである。

私たちは、不愉快なことは何でもすることが自分の義務である、と思い込んでいる。
それは、「わが神よ 私は あなたのみこころを行うことを喜びとします」という主の精神とは似ても似つかないものである。

God Bless You!!


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