2022年1月19日(水)

2022年1月19日(水)


『日が沈みかけたころ、深い眠りがアブラムを襲った。そして、見よ、大いなる暗闇の恐怖が彼を襲った。』創世記15章12節


神が聖徒に幻を示される時は、聖徒をいわば「御手の陰に」かくまってくださる時でもある。
その時に聖徒がすべきことは、静まって耳を傾けることである。

光が眩しすぎて、かえって何も見えないという「暗闇」があるが、それはひたすら耳を澄ます時である。

創世記16章のアブラムとハガルの物語は、暗闇が訪れたとき、「賢明な助言」と言われるものに耳を傾け、神からの光を待たないとどういうことになるか、という格好の実例である。

神があなたに幻を示してくださったのに、その後に暗闇が臨む場合は、ひたすら待つことである。
神の時が来るのを待っていれば、神はあなたの人生に対する幻を具体化してくださるからである。

神がみことばを成就されるのを手伝おうとするのはもってのほかである。

アプラムは13年にわたる沈黙の期間を通ったが、この年月の間に、神に頼らずとも自分でやっていけるという自信は、ことごとく打ち砕かれてしまった。
そして、もはや自分の常識が当てにならなくなった。

この沈黙の年月があったのは、神の不興を買ったためではなく、訓練のためであった。
自分の生活がいつも喜びと確信に満ちたものであるというふりをする必要はどこにもない。
大切なのは、ただ神を待ち望み、神に根ざすことだけである。

そもそも私はどこかで肉の力に信頼しているのではないだろうか。
それとも、自分自身や他の信仰者たち、また書物や祈り、そして霊的高揚感に頼ることを卒業し、神の祝福にではなく、神ご自身に揺るぎない信頼を置いただろうか。

「わたしは全能の神である。」
エル・シャダイ、それは父のようでもあり、母のようでもある神のことである。

私たちのだれもが訓練を受ける。
それは、神が現実の御方であることを知るためである。

神が私たちにとって現実の御方となるやいなや、人々の存在は影のように希薄になる。
神ご自身の上に自分を築いた人は、たとえ他の聖徒たちが何を言い、何をしようとも動揺させられることはない。

God Bless You!!


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