2022年1月14日(金)
『私は主が言われる声を聞いた。「だれを、わたしは遣わそう。だれが、われわれのために行くだろうか。」私は言った。「ここに私がおります。私を遣わしてください。」』イザヤ書6章8節
神はイザヤに向かって召命の呼びかけをされたわけではない。
「だれが、われわれのために行くだろうか」とおっしゃっているのをイザヤがふと耳にしただけである。
神の召命は、選ばれた少数者のためのものではない。
あらゆる人のためのものである。
私に召命の呼びかけが聞こえるかどうかは、私の耳の状態いかんにかかっている。
そして聞こえる内容は、まさに私の霊的状態にかかっているのである。
「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ないのです」とあるのは、自分が選ばれた者であることを身をもって示す人は稀である、という意味である。
選ばれた人とは、イエス・キリストを通して神との関係に入り、その霊的状態が変えられ、その耳が開かれた人のことである。
すると、「だれが、われわれのために行くだろうか」と、細い御声で主が絶えず問いかけておられるのが聞こえるようになる。
神はだれか一人を選び出して、「さあ、おまえが行くのだ」と仰せにはならない。
神はイザヤに有無を言わせなかったわけではない。
イザヤは神のご臨在の中で、召命の声を耳にしただけであった。
そして一切の強制がないにもかかわらず、イザヤは、「ここに私がおります。私を遣わしてください」と言わずにはいられなかったのである。
神があなたのところにやって来て、無理強いされるとか、嘆願されるのではないかと思うとしたら、大間違いである。
主が弟子たちを召される際も、圧力をかけて逆らえないようにされたわけではない。
「わたしについて来なさい」という、静かで情熱的な主の呼びかけが、心開かれた男たちに向かって、あきらめずに語られただけであった。
もし聖霊に導かれるままに神に面と向き合ったら、私たちにも、イザヤが聞いた声に似た「主の声」が聞こえることであろう。
そして一切の強制なしに、私たちも言うことであろう。
「ここに私がおります。
私を遣わしてください」と。
God Bless You!!
a:44 t:1 y:0