2022年1月11日(火)

2022年1月11日(火)


『彼らはイエスを引いて行く途中、……シモンというクレネ人を捕まえ、この人に十字架を負わせてイエスの後から運ばせた。』ルカの福音書23章26節


私たちが神に従おうとすれば、その代価は、私たちよりも他の人たちにとって大きいものとなる。
そこが心痛の始まるところである。

私たちが主を心から愛していれば、服従の代価は私たちにとっては無に等しい。
むしろ喜びである。

ところが主を愛さない人々にとってみると、私たちが主に従うことが非常に大きな負担となる。
私たちが神に従うと、その人たちの計画が狂ってしまうのである。

そして、あたかも「これがあなたの言うキリスト教なのか」とでも言わんばかりに、私たちは嘲りを受ける。
このような苦しみを未然に防ぐ方法がないわけではない。

しかし、神に忠実であろうとすれば、それはできない。
代価の支払いは覚悟しなければならない。

自分が神に従うことが他の人たちの負担になり始めると、私たちは意地になって言うものである。
「これからはだれからも、いっさいお世話になりません」と。

しかし、世話にならざるを得ないことは明らかである。
さもなければ神に背くことになる。
私たちと他の人々との関係は主ご自身の場合と違う、と考える権利は私たちにないのである。

私たちの霊的生活が行き詰まるのは、何もかも自分自身の力で負っていこうとしているためである。
しかし、それは私たちにできることではない。

私たちは、神の包括的なご計画の中に組み込まれているので、私たちが神に従うと、他の人々もその影響を被るのである。

神への従順を貫く覚悟、そして(神から)独立することを拒んだ結果、嘲りを受ける覚悟が私たちにあるだろうか。
それとも、その反対に、「私のせいで他の人たちに迷惑をかけたくはない」と私たちは言うのだろうか。

神に背くという選択が私たちにできないわけではない。
そうすれば、すぐに困難な状況は回避されることであろうが、同時に私たちの主を深く悲しませることになる。

しかし、もし私たちが神に従えば、私たちの従順のせいで迷惑を被った人々を神が気遣ってくださる。
私たちはただ単純に神に従い、結果はすべて神にお任せしなければならない。
神に従う条件として、どこまでなら結果を受け入れられるか、神に指図してはいけない。

God Bless You!!


a:47 t:1 y:0