2021年9月7日(火)の手紙

2021年9月7日(火)


『その聞いた御言は、彼らには無益であった。それが、聞いた者たちに、信仰によって結びつけられなかったからである。』ヘブル人への手紙4章2節


旧約の時代に、出エジプトを経験した人たちは、神の言葉を聞いたけれども、それが何の支えにもならなかった。
聞いた者が信仰によって神の言葉を自分と結びつけなかったからである。

このことは今日においてもまったく同じ事情にある。
神の言葉だからといって特別な言葉があるわけではない。

英語の聖書を見ると、御言葉が大文字で書いてあるが、神の言葉と人間の言葉とがすっかり違うというのではない。
神の言葉も人間の言葉もちっとも変わりはない。

ところが、聖書を読んでいると、いままで何も感じなかった言葉が、突然私の生き方を決定させるような、私の人生を180度転回させるような言葉として臨んでくることがある。

聖書は相対的なものである。
それが絶対的になっていくのは、聖書の中に神の御心を知ったとき、そして聖書の言葉が自分の生活に結びついていったときである。

「私はこの御言葉で命を与えられた」
「この御言葉によって、暗黒の中にいたけれども勝利を与えられ、元気になった」。

これらは単なる主観、自分勝手な受け止め方にすぎないと言われればそれまでであるが、信仰とは、聖書の言葉を神の語られた絶対のものとして受け止めていくことにほかならない。

神が自分と何の関係もなく、他人の関係でしかなかったならば、「それ」という三人称になってしまう。
単なる「それ」であるならば、命をかけてまで聖書の言葉を信じていくのはおかしいだろう。

私たちが聖書の言葉を生ける神の言葉と受け止めるためには、それを自分自身が聞いていくのである。
神が私に語られた言葉として結びつけていくのである。

「私に、何書の何章何節の言葉が与えられた」と言うとき、第三者は、たまたまそこを開いたからではないかと言うかもしれない。
しかし、その当事者にとっては、それが神の言葉になっているということである。

これこそ信仰生活の真の姿なのである。

神の言葉を聞くとはどういうことか。
イエスが説教するとき、群衆を座らせた場面がよく出てくる。

座るということは、仕事をしないということである。
働くのをやめることである。
信仰とは、人間の側の業をやめて、ただ神の働きを待つことなのである。

「汝、静まりて我の神たるを知れ」。

静まるとはやめると。
受け入れ、聞くこと。
この無条件の受け入れが、幼子の姿であり、主の喜ばれた人間の姿である。

「だれでも幼な子のように神の国を受けいれる者でなければ、そこにはいることは決してできない」。

御言葉への従順が信仰者に求められているのである。
私の言動を人に尋ねられたとき、すべて「聖書にそう書いてあるから」と言える生活を常に持ちたいものである。

God Bless You!!


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