2021年9月5日(日)の手紙

2021年9月5日(日)


『わたしたちは聞かされていることを、いっそう強く心に留めなければならない。そうでないと、おし流されてしまう。』ヘブル人への手紙2章1節


「聞かされていること」とはまさに福音そのもののことである。
福音はまずイエスが語られ、それを聞いた人々、つまりこのヘブル人への手紙の記者から読者へと伝わる。

「わたしたちにあかしされ」、さらに神の「しるしと不思議とさまざまな力あるわざとにより」とあるように、福音は言葉で語られたばかりでなく、言葉に伴うしるしと不思議があって伝えられたのである。

福音は一方的に人間が知恵を尽くし、論理を尽くしても、それだけではだめである。
そこに神の顧みがなければ人に伝道することはできない。
キリスト教とはこういう信仰ですと人に伝えることはできるだろう。
またキリスト教を理解してもらうこともできるだろう。

しかし私たちがどんなに言葉を尽くしても、話だけでは人を悔い改めさせること、キリストを信じさせることはできない。
そこには、御言葉に伴うしるしが必要なのである。
神が御言葉と共に働いてくださらないと私たちの信仰はどうにもならないのである。

パウロは植え、アポロは水を注ぐ、しかし育てられるのは神である、とパウロは言っている。
私たちがどんなに上手に土を耕し、肥料をやり、種を一粒ももらさないようにまいたとしても、もしその種がただの丸薬のようなものであるならば、芽は出ない。
その中に生命がなければだめなのである。

私たちはともするとそのようなまがいものの伝道をしていないだろうか。
いまのキリスト教会はみな一生懸命である。
けれども、そこに神がおられなかったら、その努力は実を結ばない。

教会の業、信徒の業にしても、クリスチャンはみなまじめで熱心である。
しかし、ただまじめ人間が集まってくるところが教会ではない。
教会とはそこに命があるかどうかが問題なのである。

「いやし」ということがよく言われる。
しかし、単に病がなおるというだけなら、他の宗教もしていることである。
キリスト教の命とは、死が死でなくなること、死に勝つ勝利である。

「世に勝つ者はだれか。イエスを神の子と信じる者ではないか」とあるとおり、世に勝つ勝利とはこのイエス・キリストである。

世とは、病気、死、不幸、誤解……のことである。
これらにキリストを信じる者が打ち勝っていくのである。

「死よ、おまえのとげは、どこにあるのか」と聖書にある。

とげをさわると痛い。
人からとげのある言葉を聞いたら痛い。
病気になると、死ぬのではないかと心配になる。
死のまぎわになると不安になる。

これらはすべてとげである。

ところがそれが、もはやとげではなくなり、また刺さっても痛くなくなるのである。
それこそがイエス・キリストによってもたらされた命であり、福音なのだ。

God Bless You!!


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