2021年9月4日(土)の手紙

2021年9月4日(土)


『この終りの時には、御子によって、わたしたちに語られたのである。』ヘブル人への手紙1章2節


旧約の時代、神は預言者を通さずには、ご自分の御心を示されなかった。
預言者は、人が好むと好まざるとにかかわらず、神から告げられたことを語っていかなければならなかった。

「御子によって語られる」とは、どういうことだろうか。
それは、イエス・キリストをこの世に送るほどに、神が私たちを愛しておられるということに尽きる。

私のような者を救うために、神は御子イエス・キリストを世に送り、十字架につけることによってご自分の御心を示された。
私たちはどんなときにも、そこから神の御心を知っていくのだ。

だから、今日において、私たちは何か天的な神秘的なものによって神の御心を聞くのではなく、イエス・キリストにおいて聞いていくのである。

「どうも神様がわからなくなった」という気持ちをいだくことがある。
次から次へと不幸がやってくると、いっそうこの思いに駆られる。

それは、私たちが毎日の生活から神を知っていこうとしているからである。
自分の生活がどんなに苦しい矛盾に満ちたものであっても、私たちがその中で神の御心を知るのは、イエス・キリストにおいて知るのである。

先年、信仰篤い信徒のかたが交通事故で亡くなった。
多くの人たちが「なぜ、あんな信仰深い人が亡くなったのか。
あんなに一生懸命教会に尽くしていた人が、なぜこんな悲惨な死に方をするのか。
ほんとうに神様はおられるのか」という疑問をいだいた。

そのとき、夫人だけが悲しみも見せず、しっかりと立っていたことが印象深かった。

神の語りかけを聴くとは、どんな事柄……直接神と連ならないどのような具体的なことが起きてきたとしても、「神は愛である」としてその現実を包んでいくことである。

また、溶かしてしまうことである。
十字架のキリストによって、夫の死という事実を夫人は溶かしていったのである。
たやすいことではないが、それが私たちの信仰生活なのである。

イエスが「人々は、わたしをだれと言っているか」と問いかけたとき、ペテロは「あなたこそ、生ける神の子キリストです」と答え、イエスが喜ばれたとある。
イエスが常に求められるのは、私たちがイエスを神と告白していくことである。

イエスを偉い人だとか、人生の教師だと理解するのは容易である。
それは理解の世界にとどめているから受け入れやすいのである。

しかし、イエスは単なる教師ではない。
私たちにとって手本である以上に、なんといっても救い主であり、神の子、神ご自身である。

イエスが神ご自身であると信じるとは、私たちが神に依り頼んでいくこと、そこに私たちの生きる世界があると信じていくことなのである。

God Bless You!!


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