2021年9月3日(金)
『もはや奴隷としてではなく……。』ピレモン人への手紙1章16節
パウロが獄中にいたときに、オネシモという逃亡奴隷と知り合った。
パウロは彼を信仰に導き、その立派な信仰は大いにパウロの助けとなった。
それで彼を自分の手元に置きたかったが、オネシモの主人であるピレモンの許可を得ないでそうするのは、いさぎよいことではないと考えて、ピレモンに手紙を書いた。
「個人的な面であなたは、オネシモに悪感情を持っているかもしれないが、いまは、オネシモは立派な神の僕になったのだから、どうぞゆるしてやってほしい。
彼があなたに何か負い目があれば、自分がそれを負いましょう」。
そういう保証を与えて、ピレモンのもとヘオネシモを返した。
まことにピレモンの手紙は、新約聖書の中でも特異なものである。
他の手紙の大部分は教会にあてたものであり、個人にあてたものであっても、それはほとんど教会に関することについての手紙である。
そういう点から言うと、これはまったく個人のものである。
私たちは、いまだけを見て人に接したり、裁いたりしてはいないだろうか。
彫刻家には、私たちが見て何のへんてつもない石であっても、そのものの中にどのような可能性があるかを見ていく目がある。
私たちも、人を導いていくときに、その人の表面のでこぼこや、そのよごれに目を奪われないで、その中に神が造ってくださる可能性を見ていくことが大事ではないだろうか。
どうしても外側を見て判断し、評価しやすいのがわれわれである。
神が業をなしてくださる可能性を見て、伝道をしていかなければならないのである。
パウロはオネシモを、あれは奴隷だという見方ではなくて、彼の中にイエス・キリストの血潮が流れている、それほどまでの愛がこの人に注がれている、という目で見ていったと思う。
私たちはだれに対しても、そのように神を伝えていくことが大事である。
神にその人をゆだねていくとき、土くれにも等しいような者が神に用いられて美しい働きをし、神の栄光をあらわす者にされていく。
そういう意味でパウロは、常に一人一人の中に神の御業を見ていった人ではないかと思う。
あのバプテスマのヨハネが言ったように、「神はこれらの石ころからでも、アプラハムの子を起すことができる」。
石ころからでもできるのである。
まして人間からアブラハムの子を造ることはたいしたことではない。
その確信を持たなければならない。
神が育てられていくとき、そこには無限の成長がある。
「もはや奴隷としてではなく、奴隷以上のもの、愛する兄弟として」とパウロは呼んでいる。
だれからも願みられない奴隷オネシモに心血を注ぎ、これからの生涯への配慮をなし、やがて監督オネシモへと育てていった。
これは伝道の姿勢を私たちに示していると思う。
God Bless You!!
a:39 t:1 y:0