2021年9月29日(水)の手紙

2021年9月29日(水)


『主にあっては、一日は千年のようであり……。』ペテロの手紙第二3章8節


この章は、主の再臨について書かれている。

イエスは神から地上に送られ、贖いの業をなし、天に昇られた。
そのイエスが再び来られる時には、キリストにつける者とそうでない者とが裁かれる。

神学的には中間という言葉を使うが、いま私たちは裁きの前の時にいる。
私たちはイエス・キリストのいさおしに依り頼んで、再臨の時、イエス・キリストにつく者とされることを喜ぶのである。

だから主の再臨を待ち望んでいくのがキリスト教信仰である。

そのために、初代の教会の人たちは一生懸命になって、主の再臨はきょうなのか、あすなのかと言って待っていた。
ところがその中から、我慢できない人、信仰から離れていく人が出てきた。
再臨はうそではないかと言う人が出てきた。

それで、「愛する者たちよ。
この一事を忘れてはならない。
主にあっては、一日は千年のようであり、千年は一日のようである」とペテロは言った。

これが主の再臨がおそいことに対する解答の一つである。

主の再臨は私たちが考えることとは違う。
神の一日は人間の1000年のようなものであるとは、神と人間の秤とは違うということである。

もう一つの解答に、「ある人々がおそいと思っているように、主は約束の実行をおそくしておられるのではない。
ただ、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである」とある。

「神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである」とあるように、神はいつでも来られるが、いま来られたら、キリストを信じないまま裁かれていく人間が多いから、一人も滅びないように忍耐しておられるのである。

あなたがたの救いのためにおそくされているのであって、約束が反古になったわけではないというのが、このところの主張である。

マタイによる福音書の第22章に、王さまに招かれた人たちの譬えが記されているが、それが主の再臨の時である。

そのとき一人だけ礼服を着ていない人がほうり出された。
招かれた席にふさわしい服装をしていなかったからである。

神の恵みはすべての人に及んでいるが、私たちはそれにこたえていかなければならない。
私たちはどんな罪を犯してもゆるされるが、ゆるされるからどんなことをしてもよいというわけではない。
神の前に清く傷のない生活をしていかなければならないのだ。

主の再臨は、あす太陽が東から昇ることよりも私にとって確かなことだとしなければ、主の再臨を信じることはできない。
主の再践を信じなければキリスト教はわからない。

お互いに、主の再臨を信じて主を待ち望みながら、きょう御心にかなう生活に励んでいきたい。

God Bless You!!


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