2021年9月27日(月)の手紙

2021年9月27日(月)


『あなたがたは、力の限りをつくして、あなたがたの信仰に徳を加え……。』ペテロの手紙第二1章5節


「わたしたちの神と救主イエス・キリストとの義によって、わたしたちと同じ尊い信仰を授かった人々へ」。

信仰は神から授かったものである。
授かったということは、自分が獲得したのではなくて、いただいたのであるから、授けたかたの深い意図や期待がある。

そのことをいつも覚えることが大事である。

「神とわたしたちの主イエスとを知ることによって、恵みと平安とが、あなたがたに豊かに加わるように」。

ここで言われている「知る」はギノスコという言葉であって、体得するというような意味である。
交わらなければ知ることができないという意味のものである。

信仰もただ本を読んだり、人の説教を聞いているだけでは少しも進歩しない。
信仰に近づくためには神と交わらなければならない。
それは神が言われたことを、私に言われたこととして聞いていくことである。

イエスが弟子を召されたときは、必ず「わたしに従ってきなさい」と言われた。
普通、教師は、私の言うことを聞きなさいとは言うが、従ってきなさいとはあまり言わない。

従っていくということは、我と汝の関係に立つということであり、交わりの中に生きることである。
そのときはじめて信仰がわかってくる。

「いのちと信心とにかかわるすべてのことは、主イエスの神聖な力によって、わたしたちに与えられている」。

信仰によって与えられる断しい生命。
信仰によって私たちは、いままで持っていた肉にかかわる生命とは異なった生命に生かされていくようになる。

だから普通の人が考えると、あの人は自殺でもするのではないかと思うほど苦しいときにも、その人はもう一つの生命に生きているから少しも苦しくない。
それが新しい生命である。

信心ということは、新しい生命に生かされた者が、それにふさわしい敬度な生活をすることなのだ。

「あなたがたの信仰に徳を加え……」。

この加えるという言葉は、備えると訳してもよいそうである。
ギリシャ語のコレゲオからきたもので、コーラスの指揮をするとか、コーラスの出演の費用を払うという意味もある。

昔のギリシャでは、コーラスを結成する人は惜しみなく金をつぎ込み、立派な人を雇ったそうである。
この加えるという言葉の背景にはそういった意味があり、神の恵みが十分育つように、思いきってあらゆるよいものを自分の中に迎え入れなさいということである。

信仰に徳を、徳に知識を、知識に節制をとあるように、それらが自分の中に満ちるように、どんな犠牲も払い、どんなことでもしていく。
すなわち信仰生活にとって必要なことを貧欲なほど一生懸命求めていくということである。

「まず神の国と神の義とを求めなさい」とイエスが言われたのは、このことなのである。

God Bless You!!


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