2021年9月22日(水)の手紙

2021年9月22日(水)


『あなたがたのために天にたくわえてある、朽ちず汚れず、しぼむことのない資産を受け継ぐ者として下さったのである。』ペテロの手紙第一1章4節


「ポント、ガラテヤ、カパドキヤ、アジヤおよびビテニヤに離散し寄留している人たち」。

これらの土地は、小アジヤの代表的な町であって、非常な迫害の起きたところである。
紀元70年ごろエルサレムはローマに占領されて、ユダヤ人は全世界に散らされていった。

それが小アジヤあたりにも散らされながらも、使徒行伝第8章4節にあるように「さて、散らされて行った人たちは、御言を宣べ伝えながら、めぐり歩いた」のである。

散らされていったという意味とともに、離散という言葉には、難民というような意味もあったようである。
信仰のゆえに自分の家を追われ、職業を奪われ、ほうほうの体で逃げ出してきた人たちは難民である。

そのように信仰のゆえに地上のものを失った人たちがおおぜいいたのである。

これは私たちが反省すべき点ではないかと思う。
私たちはいったいイエス・キリストを信じることで、何を失っただろうか。
私たちは信仰によって何かを得ることだけを考えているのではなかろうか。

「神様、こうしてください。ああしてください」と、得ることだけを考えているところに、私たちの信仰の問題があるのではないかと思う。

キリスト教の場合は、得ることよりも与えられたというところから信仰が出発する。
すでに神の子イエス・キリストが与えられたところから出発するのであるから、与えられたものにどのようにこたえていくかということが、私たちの信仰生活である。

したがって得ることよりもささげていく、失っていくことが、キリスト教信仰の大きな特色なのだ。

人生にとって大事なのは、処生術ではなく、与えていくことである。
イエスご自身がそういうふうに生きられたのだから。

私たちは信仰生活の中で、失うことについて真剣に考えなければならないと思う。
失うということは小さくなることであり、貧しくなることである。

「あなたがたのために天にたくわえてある、朽ちず汚れず、しぼむことのない資産を受け継ぐ者として下さったのである」。

イエスが復活されたことと私たちはどんな関係があるのだろうか。
私たちは約束を与えられている。
約束手形に私の資産をあげますと書いてあっても、その日が来るまでは一片の紙切れである。

私たちはイエス・キリストの十字架、また主が死人の中からよみがえられたという事実にかかわる者とされたことによって、天に蓄えてある朽ちず、汚れず、しぼむことのない資産を受け継ぐ者とされた。

そのことにもっと大きな喜びを見いだしていかなければならない。

現在だけを見ていては、信仰はできない。
将来を見通していくところに信仰はある。

God Bless You!!


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