2021年9月2日(木)の手紙

2021年9月2日(木)


『聖霊により新たにされて、わたしたちは救われたのである。』テトスへの手紙3章5節


私たちはいつでも、聖書全体が私たちに何を示しているかを、目を見開いて知る必要がある。
キリスト者の社会生活や倫理はここを基準としておかないと、逸脱する危険があると思う。

隣人の人権が無視され、しいたげられていれば、私たちは立ち上がる。
確かに、新約聖書においては、この世の権威、権力者に対しては服従していきなさいと語っているように思える。

本章の1節もそれである。
しかし、機械的に、聖書にこう書いてあるからといって、権力者が今日どんなことをしてもそれに従っていくべきであると結論づけるのは誤りではないか。

部分的な解釈をせず、聖書全体の流れや指向するもの、主張するものを読み取っていかないと、イエスが十字架について私たちに示してくださった愛という、最も大きなものが空転し、むなしくなってしまう。
気をつけなければならないことである。

「わたしたちの行った義のわざによってではなく、ただ神のあわれみによって……」。

私たちの信仰は自分で得たものではない。
だから大事にしていかなければならない。

タラントの譬えにも示されているように、信仰は努力で勝ちとったものではなく、与えられ、預けられたものである。
土の中に埋めておくのではなく、生かしていくものである。

これを私たちの人生や、あるいは時にあてはめて考えてみるならば、きょうの一日も自分が生きているのではなくて、キリストの尊い贖いによって生かされ、与えられた一日であるということである。

だから、与えられたこの時を、自分の欲望や自分の思いだけで終わらせるのではなく、それを与えてくださった神に対して応答していく生き方をしなければ、ほんとうの意味において生きることにはならないのである。

信仰生活を、私たちがなぜ大事にしていかなくてはならないか、それは大きな犠牲を払って、私たちに預けられたものであるからなのだ。

「聖霊により新たにされて、わたしたちは救われたのである」。

この意味は深い。
聖霊が私たちに注がれるために、神の御子イエス・キリストが十字架の上で、贖いの死をとげられたことを忘れてはならない。

聖霊を強調する人たちの中には、なにか別個な、十字架とは関係のないところでもらい受けるもののような考えを持つ人があるようだが、それは誤っていると思う。

聖霊を受けるということには、おごそかな、そして大きな犠牲が払われているのであって、そういう点で私たちは、軽々しく聖霊を受けるということを口にすべきではない。

God Bless You!!


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