2021年9月17日(金)の手紙

2021年9月17日(金)


『信仰がためされることによって、忍耐が生み出されるからである。』ヤコブの手紙1章3節


この書簡は行為を重んじているということで、ルターから「わらの書簡」と決めつけられた有名な言葉が残っている。

ヤコプは行為の伴わない信仰への批判を強く前面に出したため、彼の信仰は人間の行為を救われる条件としているように受け取られてきた。

対して、パウロの絶対恩寵の信仰は、各書簡に見られるように、ユダヤ人の律法主義には受け入れられず、一方ではそれを安価な自由と受け取る人々との間で、パウロは苦悶していた。

このパウロの福音信仰から、何をしてもよい、ゆるされているのだからという、行いを軽視する風潮が出てきた中、それはおかしいとヤコブが言っているわけである。

2節、3節に「あなたがたが、いろいろな試練にあった場合、それをむしろ非常に喜ばしいことと思いなさい。
あなたがたの知っているとおり、信仰がためされることによって、忍耐が生み出されるからである」とある。

世の人は、信仰は現実逃避であると言う。
現実には実現しない願いが、かの世界に行ったら満たされるという、現実からの逃げだといつも言われる。

確かにその一面があることは否定しない。
けれども、私はハンセン氏病療養所へ行くといつも人間の悲しみと神の栄光が重なり合っている感じを持つのである。

患者は自分の責任によらず発病し、人が厭う症状に苦しむ生活を送っている。
しかし、失明や手足の不自由の中にありながら、それでも彼らは、やがて主が再び来られる時には、ヨブのごとく「わたしは肉を離れて神を見るであろう」と、若々しい幼子のような肉体を与えられて神の前に立つことができるという希望を持っている。

これをだれが逃避だと言えるだろうか。

現世ではどんなにしてもかなえられないことを神が必ず完全なものにしてくださるという望みがあるからこそ、現実の日々を耐えていけるのである。

だから外面は現実逃避に見えてもよい。
私たちが聖書の約束を信じて忍耐していけることは、不思議であり、奇跡であり、神の恵みではないだろうか。

今日、私が神を信じ、聖書の御言葉に立って生きていこうとすると、たちどころにさまざまな苦しみや悩みがやってくる。

これが試練である。

けれどもそこで、「いや、やがてがあるのだ」と信じることである。
忍耐とは、やがてがあるという信仰である。
やがての決算の時があるという確信がなければ、信仰生活を全うすることはできない。

「見よ。わたしはすぐに来る」とある。

キリストの約束である。
キリストの約束は寸分の疑いもない。

ここで私たちは、暗夜の現実にあふれるばかりの慰めと忍耐をいただけるのである。

God Bless You!!


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