2021年9月11日(土)
『「山で示された型どおりに、注意してそのいっさいを作りなさい」と言われたのである。』ヘブル人への手紙8章5節
出エジプト記の後半を見ると、モーセが神に示された幕屋のことが書かれている。
その材料、長さ、幅、くぎ、ひも、糸はと、まったくこまかく、しかも繰り返し同じことが書かれている。
モーセは、神に言われたとおりに、くぎ一本に至るまでそのとおりにしていった。
これは、私たちの信仰生活に大事なことなのではないだろうか。
教会生活はいろいろ定められている。
しかし、ともすると私たちはルーズになり、くぎを二本打て、というところを、一本しか打たないことがある。
「しなさい」と決められていても、そのとおりにしない。
しなくても外見は変わらない。
クリスチャンはクリスチャンであり、教会は教会である。
規定どおりにしなくてもなんとか家は建つ。
だが、そうした建物は、天井が落ちたり、床が抜けたり、暴露されるときがあるのだ。
信仰生活も、いま見えるところは、少しサボっている人も、きちょうめんにやっている人も変わりはない。
けれども、やがて自分の生活が破綻しそうになるとき、きちんと教会生活を守っている人には、それが根強い支えとなってくるのである。
モーセは言われたとおり神の幕屋を建てた。
そこに神の栄光が満ちたと書いてある。
言われたとおりにしたから栄光が満ちたのである。
彼は一点一画も揺るがせにせず、型どおりに注意して造った。
私たちの建てつつある信仰生活はどうだろうか。
自分は教会へ行っているのだ、というだけのことではないだろうか。
主の栄光があらわれるよう、主の言われたとおりに、教会生活をも含めて一日一日の生活を建て続けているだろうか。
主の栄光にあずかるとは、そして私たちが幸福になるとは、なにも考え込むようなむずかしいことではない。
主の言われたとおりにすること、つまりここでは、神に帰ることだけなのである。
放蕩息子は、父のところへ帰った。
その息子を、彼がまだ遠くにいるのに駆け寄り、抱きしめてくださるのが神である。
まず、神のふところへ帰ろう。
もう一度「お父さん」と呼ぼう。
そののち、迎えてくださった背後にどれほどの神の痛みがあるかを知らされ、神の愛の深さを知らされ、「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」の御言葉どおりになるのである。
これが幸福のルーツである。
神を喜ぶ生活を私たちが毎日続けていくとき、そこに主の栄光が満ちあふれるのである。
God Bless You!!
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