2021年9月1日(水)の手紙

2021年9月1日(水)


『慎み深くし……。』テトスへの手紙2章2節


「自らを制し、謹厳で、慎み深くし……·」。

この慎み深くみという言葉は本章に4回も出てきて、たいへん強調されている。
普通、慎み深い人といえば、感情を露骨に出さず小声で笑うような人を思い浮かべるが、聖書で言うのはそうした道徳的なニュアンスではなくて、信仰的なことから言っているのである。

では、信仰的に慎み深いとはどういうことであろうか。

「宴楽と泥酔、淫乱と好色、争いとねたみを捨てて、昼歩くように、つつましく歩こうではないか」とあるように、肉を喜ばせたり、我執に走ったりして、神のことを第一としないのが慎み深くないことであると聖書は教える。

この世に対してひかれる思いを捨て、昼歩くようにつつましく歩こうではないかということは、いまはまだ暗いが、あたかも昼が来たかのように歩こうという意味である。

神がこの世を支配しておられるとか、あるいは、イエスが世の終わりに来られるということを、この世の成り行きの中に埋没させてしまわないで、それがいま来られたかのように、いまそのような神の愛が私に注がれているというふうに生きていくことが、慎み深くということである。

いま、イエスがここに来られて、「おまえは何をしているのか」と問われたとき、「いや、ちょっと……」と言い訳するような生活では、慎み深いとは言えない。

どんな瞬間でも、「イエス様」と言ってついていける生活、イエスに対するガラス張りの生活が慎み深い生活なのである。

「神の言がそしりを受けないように」とあるが、人々は、私たち信者やその生活からキリスト教を知ろうとする。だ
から私たちは、あれでもキリスト信者かと非難を受けることのない生活をすることがたいせつである。

しかし同時に、どんなにつまずきを与えないようにしても、信仰そのものが理解できないために、理解されないことがあることも覚悟しておかなければならない。

理解してもらうために自分の信仰の主体性までなくしてしまうのは本末転倒である。

御言葉には命がある。
私は最近そのことを痛感する。

私たちは、現在の目先の状態だけを見て、それがどんな結果を生んでいるかで判断しやすいが、神の御心は私たちの心より深く、広く、測りがたい。
私たちは悲しみの中で神の慰めを受けることができ、恐れと不安の中で神の平安をいただくことができるのである。

神の約束には力がある。
だから、いまがどうであろうと恐れることはない。
私たちが神の言葉に立っているかどうかがたいせつなのだ。

だから私たちは、ある面においては人のつまずきにならないように心がけ、ある面では信仰のゆえに誤解を受けることに大胆でありたいと思うのである。

God Bless You!!


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